第2章 いつもと違う夏

第6話 たかいところ(上)

 今年の夏休みは、本当だったらお母さんと二人でどこかへ旅行するつもりだった。お父さんが好きだった街に行くのもいいし、少し長めに休みを取って、近場の外国に行くのもいいかもねと、お母さんは言っていた。たまにはそれくらいしたっていいでしょって、お母さんは笑っていた。


『お互い、生きてるなら生きてるなりの楽しみを見つけないとだめね』


 私はお母さんの子どもだけれど、私たちは戦友みたいなものだ。あの日、泣かないお母さんの代わりに泣いた時から、私はずっとそう思ってた。

 でも、お母さんが何と戦ってるのかは、わからないままでいる。


 少なくともこの夏は、夏休みの話をしてたお母さんの笑顔を、消し去ってしまったことだけは確かだ。



 お母さんは、朝から慌ただしく身支度をしていた。金曜日は週に一度の出勤日で、朝から出かけてしまった。お父さんと二人でそれを見送ると、私たちはなにをしたらいいのかわからなくなって、顔を見合わせた。


「お父さんさ、どっか行きたいところある?」

「どっか?」

「うん。家に居てもつまらないでしょ? せっかくだし、どっか行こうよ。なんかやりたいことは?」

「うーん……。わすれちゃった……」

「やりたいこと、あったんだね」

「うーん……」


 お父さんは細い両腕を組んで考え込む。そう言えば、お父さんが小さい頃になにをして遊んでいたのかなんて、聞いたことがなかった。


「あ! たかいところに行きたい!」

「高いところって?」

「まちがどんなになってるのか、見たいの」

「ああー、なるほど! お父さん、頭いいね」

「そうだよ、だって六年生の本がよめるんだもん」

「そうだったね」


 私たちは支度をして、バスに乗った。家に子ども用のマスクがなかったから、お父さんの顔は、大人用のマスクに埋もれそうになっている。それを唇でゆらゆら揺らしながら、お父さんは窓の外を眺めていた。細い首をうんと伸ばして。


「なんでこんなにあついの?」

「夏ってこんなもんじゃないのかなあ。今年は酷いけど」

「だって、夜までセミがないてたでしょ」

「うん」

「ぼくんちは、夕方になるとセミじゃなくってヒグラシがなくのに」

「へえー」


 この街は、お父さんの家とは少し距離がある。けれど、気候がまるっきり違うほど遠いわけでもない。きっと、時代が変わったせいだ。お母さんがよく、「わたしが子どもの頃は、ここまで暑くなかったのよ」と言うけれど、それは本当らしい。


「あついし、マスクもしないといけないし、みらいはたいへんだね」

「そうだねー。でもまあ、仕方ないよ」

「ぼくはいないからいいけどさ、お姉ちゃんとおよめさんはたいへんだ」


 丸い頭が言っている。まだ子どもで、小さくて、夫婦にも親にもなる前のお父さんが。


「お父さんがいたら、どうしたんだろうね。ぷりぷり怒るか、へらへらしてるかのどっちかだろうけど」

「大人のぼくは、そんなにへんな人なの?」

「変っていうか、文句言うくせに最後には楽しいことを見つけて来る人だったよ」

「ふうん」


 お父さんの顔は、窓には映らない。今、どんな顔をしているのだろう。そう思っても、覗き込むのは躊躇われた。


「お姉ちゃんは、ぼくがすきだった?」


 ふわふわと柔らかい頬が、そんなことを言う。小さいお父さんは可愛らしい。頭を撫でてあげたくなる。けれど、お父さんが聞きたいのは、今の彼の話ではないはずだ。


「お父さんのこと、好きか嫌いかわかる前に、お父さんは死んじゃったからなあ」

「そっかあ」

「私、反抗期だったから。お父さんによく、“大っ嫌い”って言ってたんだけど」

「かなしい」

「でも、お父さんいっつもへらへらしてたよ。“お前が何と言おうと、お父さんのこと本当は好きなの知ってるからな”とか言って」


 すると、小さいお父さんは薄い眉をひそめてこっちを見た。


「ぼく、やっぱりへんな人だね」

「まあねえ。……でもさ、お父さんがいなくなっちゃった時は、寂しかったよ。だから、きっと好きだと思う」

「およめさんも?」

「そりゃそうでしょ」

「ふうん」


 お父さんの声は、少しだけ沈んでいた。

 すると、停留所でバスが停まって、誰かが乗り込んできた。その人はこっちを見るなり、目を丸くした。


「高桐! 久しぶり!」

「えっと……。園田くん?」


 同じ中学と高校に通っていた、園田くんだ。中学時代は三年間同じクラス、しかも出席番号順が前後だった。高校でも、一度同じクラスになったことがある。出席番号は、その時も前後だった。

 私が彼の名前を言い淀んだのは、記憶の中の姿と、彼の見た目が変わっていたからだ。私が知る限りの園田くんは、野球部らしい坊主頭をしていた。夏には真っ黒に日焼けして、白目だけがぎょろぎょろ目立っていたものだ。それに、最後に会った時は、お互いマスクなんてしていなかった。よく私に気づいてくれたと思う。

 髪が伸びた園田くんは、少し大人びて見えた。高校を卒業して以来の再会だから、そう思うのは当然かもしれない。彼は、私たちと通路を挟んで隣の一人がけの席に座る。関心事は、偶然再会した私だけじゃないらしい。わざとらしく背伸びして、窓際のお父さんを覗き込む。その人懐っこい仕草は、昔の園田くんとあまり変わらない。


「なに、親戚の子? 珍しいな」

「えーっと」


 珍しいのは、私が子どもと一緒にいることではないだろう。「このご時世に、親戚の子どもが遊びに来るなんて珍しいな」という意味のはずだ。答えに悩んでいたら、お父さんが私の背中に隠れながら声を上げた。

 

「ぼくは、お姉ちゃんのお父さんなの」

「お、お父さん」

「ぼくの子どもをいじめちゃだめだからね」


 ここで会ったのが、園田くんでよかった。彼はきょとんとして目を丸くしているけど、お父さんの言うことを、子どもが良く言う素っ頓狂な理屈だと理解したらしい。コップの中の氷みたいにからからと笑って、誰もいない前の席の背もたれに肘をついた。


「あーあー、ごめんな“お父さん”。そう怒るなよ、アイス買ってやるから」

「……ぼく、お兄ちゃんのお父さんじゃないもん」

「へーへー。よく口が立つちびっこだなあ。アイスはいらねえの?」

「……食べる」

「よっし! 高桐、暇ならどっかでアイス食おうぜ」


 園田くんも、もしかしたらこの暑いだけの夏を持て余しているのかもしれない。私が覚えている夏の園田くんよりも、今の彼は日焼けをしていないから。


「私たち展望台行くけど、一緒に来る?」

「おお。いいな。アイスぐらいは売ってんだろ」


 きっとマスクがなかったら、歯が見えるくらい太陽のように笑う、園田くんのあの顔が見えたんだろう。

 

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