第5話 子ども

 その日の晩御飯の食卓に、私は目を疑った。ごまだれ、平たい豚肉。野菜もたくさん。テーブルの真ん中には、ホットプレートが置いてある。信じられなかった。しゃぶしゃぶだ。

 なんてことのないように、お母さんは台所で支度をしている。「見てないで手伝って」と言われて、私は我に返ってお母さんの隣に立った。野菜を切る自分の手が、いつもより落ち着かないのが見える。


「しゃぶしゃぶするの、久しぶりだね」

「そうね。お父さんが死んでから初めてじゃない?」

「そんな、他人事みたいにさあ……」


 お父さんは、テーブルに食器を並べながらはしゃいでいる。子どもっぽい声は、どこにでもいるごく普通の男の子のそれと変わらない。お母さんも、まるでカズくんと話すみたいな口ぶりだった。


「およめさん、しゃぶしゃぶ、いっぱい食べていいんでしょ?」

「あなた、子どもの頃からしゃぶしゃぶ好きだったの」

「うん、すき。たんじょうびの時は、いつもこれ」

「いつもって、まだ10回も誕生日来てないでしょう」


 お母さんは、お父さんが死んでから一度もしゃぶしゃぶを作らなかった。「あんまり好きじゃないのよね」というのが、その理由だと口にした。けれど、三人でしゃぶしゃぶする時に楽しそうな顔をしてたのは、お父さんだけじゃないってことを、私は知っている。


 お母さんは、小さいお父さんがしゃぶしゃぶを食べるのを、目を細めて眺めていた。お父さんが肉ばっかり食べて、しらたきを避けるのに文句を言って。

 私の隣の席で、お父さんは肉を頬張っている。肉を食む度、頬は幸せそうに上下に揺れる。カズくんが泊まりに来た日のように、夜は少しだけ賑やかになった。

 けれど、この子はカズくんではないとどうしても思わされることがある。豆腐を半分食べたままご飯の上に置いて放っておく癖は、私が知るお父さんと同じだった。忘れていた些細な思い出が、小さなお父さんの出現で、棚の底から引っ張り出されたように色鮮やかなものに変わる。


「お父さん、今が何年か知ってる?」

「ううん」

「今は、2020年だよ」

「それって、昭和何年?」

「昭和じゃないよ。今は、令和」

「ふうん。昭和のつぎは“れいわ”なのかあ」

「次じゃないよ。間に“平成”っていうのがあったんだよ」

「“へいせい”かあ。しらない」


 ぶつぶつと口の中で何か言っていたお父さんは、麦茶を飲んでから閃いたようにこっちを向いて声を上げた。


「もう、車で空をとべるようになった?」

「見たことないなあ」

「じゃあ、せんたくものをたたんでくれるロボットは?」

「それも、見たことない」

「日本人は月に行った?」

「月には行ってないけど、宇宙には行ったんじゃないかな」

「へえー。すごいね」


 それから、豆腐の下の出汁が染み込んだご飯を食べてから、また続ける。今度の質問相手は、お母さんだ。私にも聞いたことを、確かめたかったらしい。


「なんでかぜじゃないのに、マスクしないといけないの?」

「病気が流行ってるからよ」

「映画みたいだね」

「わたしも、最初はそう思ってたわよ」

「でも、ほんとのことなの?」

「そう。ほんと。人が世界中でいっぱい死んでる」

「……みらいなのに、病気で人が死んじゃうの」


 声はしょんぼり萎れてしまい、お父さんは黙り込む。それでも、柔らかい頬はまだしゃぶしゃぶを食べるために動き続けている。

 だから、お母さんはあまり気にしなかったようだ。お父さんの小皿に肉を入れると、「ほら、食べちゃって」とお父さんの頭を雑に撫でる。まるで魔法がかかったように、肉を食べればお父さんの機嫌はすぐ元に戻る。小学生らしくご飯をすっかり平らげると、膨らんだお腹をぽんぽんと叩いて満足げに笑っていた。




 食事の後片付けを終えると、お母さんは自分の部屋に戻って行った。まだ仕事が残っているらしい。私は、カズくんが泊まりに来た時みたいに、自分の部屋に布団を二人分並べた。お父さんは遠慮もなしにごろごろと布団の上に寝転がり、枕の上にぴたりと頭を置く。


「お姉ちゃん、ぼくの子どもなんでしょ?」

「うん」


 私も、お父さんの隣に寝転がる。いつもよりも寝る時間にはだいぶ早いけど、お父さんが来たせいか、なんだかすぐにでも眠ってしまいそうだ。


「お父さんといっしょにねるの、いやじゃないの?」

「親戚の子が泊まりに来たら、一緒の部屋で寝るしね。今のお父さんなら平気だよ、小さいし」

「ふうん」

「寝るまで一緒に喋ったり、本読んだりするの、嫌いじゃないよ」

「へえー。ぼくも、本よむのすきだよ」

「そうなんだ」

「六年生の本だってよめるんだから」


 得意げに笑うお父さんと顔を見合わせる。小さいけど、なんとなく目元はお父さんによく似ていた。お父さんの目を、こんな近くで見る時が来るなんて思ってもいなかった。まるで、夢の中のようだった。現実味のなさで言えば、お父さんが死ぬ病室と同じくらいに。

 その顔を見て、ふと思い出す。


「お父さんがお父さんなら、この本好きなんじゃないかな。子どもの頃好きだったって言ってたよ」


 起き上がって本棚を覗く。お父さんが好きだった本を拾い上げて見せれば、小さなお父さんは「あっ!」と声を上げた。


「“月世界へ行く”だ!」

「すごいね。こんな小さい時から読んでたの?」

「お父さんがよんでくれたんだよ。えっと、ぼくのお父さんだから……」

「私のおじいちゃんだね」

「そう! よんで!」

「いいよ」


 私たちは並んで本を覗き込んだ。今のお父さんは、まだこの物語を一人では読めないだろう。漢字も言い回しも、子ども向けにしては難しい。それでも、お父さんは私が読むその物語を目で必死に追っていた。

 男三人が、大砲のような仕組みのロケットで月へ行く冒険物語。まだ、今のような精巧な天体望遠鏡もなければ、スペースシャトルもなかった時代の宇宙旅行。荒唐無稽に見える物語でも、月面をスケッチするような細やかな描写や、きらきらと輝くような宇宙の景色は、どんな高性能なカメラで撮った写真より、ずっと美しく思えた。

 気づけば、私たちは眠っていた。



──夢を見たのは、そのせいだろう。

 私とお父さんとお母さんが、小さなロケットに乗っている。お父さんは、私が知っている年齢のお父さんだし、お母さんは今と同じお母さんだ。もちろん、私も私。

 三人で、窓の外に見える宇宙を眺めていた。地球はもうだいぶ遠くに見えるけど、本当に自分たちが目的地の月世界にたどり着けるのか、あんまりよくわかっていなかった。


「澪! ほら、見てみろ。ふたご座だ」


 宇宙から星座なんか見えるはずないのに、お父さんが声を上げた。だから私も、小さな丸い窓から外を見た。不思議なことに、夢の中の宇宙には星座があった。しかも、絵に描いたような双子が並んで座っている。


「わー。ふたご座って、本当に双子だったんだね」

「そうだなあ、見てみないとわからんモンもあるんだなあ。ほら! お母さんも早く見ろって! 通り過ぎるぞ」


 お父さんの声につられて、お母さんもぱたぱたとこっちに来た。そうして三人で小さな窓から星を眺めた。


「ふたご座って、ほんとに双子なのね」

「親子で同じこと言ってるぞ」

「ええ? ほんとに?」

「本当だよ。なあ、澪」

「うん」


 夢の中の私は、このロケットがどこへ飛んで行ったとしても、別にいいやと思っていた。

 それよりも、ロケットが止まってしまうことの方が、ずっと怖かった。──

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