第4章 この夏の、延長線上で

第13話 おみやげ

──お父さんの余命の話を聞いたのは、最後に一緒に花火を見た少し後のことだった。

 その前年、お父さんは一度病院に運ばれたのだけれど、その時は何事もなかったような顔をしていたから、そんなこと私はすっかり忘れて、反抗期を続けていた。

 忘れていたから、お父さんに毎日と言っていいほど、「大嫌い」とか「洗濯物一緒に洗わないで」とか、ずけずけと棘のある言葉を言い続けられたんだろう。それに、何を言ってもお父さんがへらへらしているのも、気に食わなかった。


 ある日の夜、眠れなくて台所に行ったら、お父さんが一人でレモン味のアイスを食べていた。食べたかったアイスを横取りされて、私はいつも通り言ったのだった。


「お父さん、ほんと最低。もう顔も見たくない」

「じゃあ、そんなお前に朗報だ」


 お父さんは、最後の一口をゆっくり食べてからこう言った。


「俺、割ともうすぐ死ぬらしい」

「は?」

「去年倒れたの覚えてるか? その時、もしかしたらって言われたんだけどな。どうやら、もしかしたらしい」

「なに言ってんの? ばかじゃないの」

「俺だって、ばかげてるなと思ったよ」


 目の前にいるお父さんは、どうやっても死ぬなんて思えなかった。背筋も伸びているし、口だって良く回る。何より、夜中の台所で呑気にアイスを食べている人が、もうすぐ死ぬなんて。


「でもまあ、そういうことらしいから。言えるうちに、たくさん“嫌い”って言っておけ」

「なにそれ」

「反抗期は、子どもに必要なモンだからな。俺には止める資格がない」


 もう、アイスのことなんてどうだってよかった。お父さんが口にしたことが、本当なのか嘘なのかもわからなかった。


「まあ、お前が何と言おうと、俺のこと本当は好きなの、知ってるからな」

「気持ち悪いこと言わないで」

「その気持ち悪さともじきにお別れだ。いいか? 俺のこと、よく覚えておけよ? “忘れない”んじゃなく、“覚えて”ろよ」


 アイスのカップとスプーンを洗いながら、お父さんはいたずらっ子のような顔をした。


「俺は結構、お前のことが好きなんだよ。残念だったな。ざまあみろ」


 それからすぐに、お父さんは入院した。それきり一度も、家には戻ってこなかった。──




 翌日、私たち三人はお父さんが死んだ病院の前にいた。別に、誰に用があったわけでもない。お父さんが、見たいと言ったから来ただけだった。

 もちろん病棟には入れなかったから、代わりに病院の敷地内にある公園の日陰に座った。お父さんがよく、病室から眺めていた景色の中だ。山の方を向いているから、花火は見えなかった。

 

「ぼく、二人とさいごになにを話したの?」

「あなた、ここの噴水の水はどこから来るのかなって言ってたわよ」

「私もそれ聞いた」

「……大人のぼく、やっぱりへんな人だ」


 確か、そんな他愛ない会話を三人でしたのがさいごだった。さいごの会話を、三人で出来たのは良かったと思う。もし、私かお母さんかのどちらかしかいなかったら。その記憶を一人ぼっちで抱えるのは、きっと永遠に続く寂しさでしかないから。覚えている人が二人いれば、それは思い出に変えられる。


「お父さん、川の水じゃないよなとか、でも生活排水でもないだろうとか、そんなことばっかり言ってた」

「死ぬまえに、そんなこと言ってたの?」

「他のこと考えたかったんじゃない?」

「死ぬのがこわかったのかなあ」

「そうかもね」


 日陰でも、吹く風は生ぬるい。噴水から吹きあがる水を見ても、涼しさを感じるのは難しい。ただそれは、照り付ける太陽を弄ぶように、きらきらと輝いている。


「あの人は、考えても仕方がないことは考えない人だったから」


 お母さんが言った。


「だから、考えて答えが出そうなことを、考えることにしたんじゃないかしらね」

「お父さんが死ぬのは仕方がないから?」

「そう。もうあの頃には、遺産相続の話も何もかもがまとまって、“後は死ぬだけ”って、言ってたくらいだから」

「……そっかあ」


 私の返事は、熱風みたいな風に飛ばされていく。お父さんはベンチでぶらぶらと足を揺すったまま、噴水を眺めていた。


「ぼく、きっとあの水が、澪の川につながってたらいいなって、思ったんじゃないかなあ」

「あなた、その名前知ってるの?」

「え?」

「澪ノ川」


 お母さんは、目を丸くしてお父さんの顔を覗き込んだ。小さいお父さんは、不思議そうに首をかしげる。


「だって、子どもの名前が“澪”だから、“澪の川”でしょ?」

「ああ、びっくりした。その川、澪ノ川って言うのよ」

「へえー」

「私の名前、そのまんまだったんだね」

「そうね。でも、どうして澪ノ川と繋がっていたらいいなんて思ったのかしら」


 するとお父さんは、跳ねるようにベンチを下りてこちらを見た。お父さんの分だけ空いたベンチに、私とお母さんが座っている。


「そしたら、子どもともおよめさんとも、ずっといっしょにいられるみたいでしょ? まどを見れば、いつだってふんすいは見えるんだから」


 噴水の水音が聞こえる。お父さんは、そこに向かって駆け出した。私たちも後を追う。

 その頃にはもうわかっていた。

 そろそろお父さんは、元の時代に戻ってしまう。


 三人で、噴水の水を覗き込む。水面に、お父さんの顔は写らない。その度に私は思う。ここはお父さんがいるべき場所ではない。お父さんがもういない、2020年の夏なんだと。


 すると、お母さんは鞄から何かを取り出した。噴水を眺めるお父さんの手元に、それを置く。


「これ、あげるわ」

「水晶!」

「あなたがくれた中で、私が一番好きだった石よ。どこで拾ったんだか知らないけれど」


 半透明な小さな石を、お父さんは摘み上げる。それを空に向けてみれば、石は夏の空の色に変わった。この夏を閉じ込めるには、あまりにも小さな石だった。けれど、お父さんはうなづいて、手の中でぎゅっと握りしめる。


「だいじにするね」

「そっちに持って帰れるかは知らないけれど、持って帰れたら、また私に渡してちょうだい」

「うん」

「約束がいっぱい出来たわね」

「でも、そのほうがいいね」

「そうでしょう?」


 お母さんが、お父さんの小さな頭を撫でた。お父さんには影がない。だから、お母さんの影だけが、まるでパントマイムをするみたいに、平たく揺れていた。


「私からも、お土産があるんだよ、お父さん」

「なあに?」

「昨日の写真」


 今度は、私がお母さんの鞄から封筒を取り出した。中には、写真館で撮った写真が入っている。小さいサイズだけど、ちゃんと私たちはおめかしをして、すました顔で写っている。


「お父さんが好きなの、一枚持って行って」

「ぼくいないのに、いいの?」

「うん。せっかくだから」


 トランプのババ抜きでもしているように、お父さんは手元で写真を広げる。どれにもお父さんの姿はなくて、影も形も写っていない。いるのは、私とお母さんだけ。

 それでも、お父さんはうきうきと嬉しそうに写真を眺めて、「これにする」と一枚だけを摘み上げた。


「お父さん、どれにしたの?」

「これ。みんなわらってるから」


 私たちも、お父さんが選んだ写真を覗き込む。写真館のおじさんが、なにか冗談でも言ったんだろう。私たちは緊張が解けたのか、着物に似合わず口を開けて笑っていた。


「いつの間にこんな写真撮ったのかしらね」

「気づかなかったね」


 お父さんは、小さな水晶と写真を、大事に大事に両手に握った。決して落としてしまわないように、傷つけてしまわないように。小さな手でしっかり握って、それから、顔を上げた。


「ぼく、いかなくちゃ」

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