第15話 やくそく(下)
二人で家に戻ると、もうお父さんの影はどこにもなかった。三つ目の椅子には、いつも通り買い物袋がどさりと置かれて、晩御飯はそうめんに変わった。
だけど、ベランダの物干し竿には小さな男の子の洋服がかかっていて、足元には小さなサンダルが干してあった。久しぶりに見たスマートフォンには、前に園田くんが送ってくれた写真と、「ちびによろしく!」という言葉が残っていた。
小さなお父さんは確かにこの夏にいた。そうして私とお母さんは、確かにお父さんとこの夏を過ごしたのだ。夢の中ではない、本当の夏を。
「澪! 見て!」
お母さんが、台所で私を呼んだ。一階に降りてみると、エプロン姿のお母さんがアルバムを持ったまま、テーブルに落ちた一枚の写真を眺めている。
「どうしたの?」
「これ、今、アルバム持ち上げたら落ちてきたのよ」
色のくすんだ写真には、子どものお父さんだけが写っていた。一人なのに中心から右に外れて立っていて、見えない何かの影に隠れるように片方の手で宙を掴み、もう片方の手でピースサインを作っている。
その顔は、緊張が解けたように笑っていた。
まるで、小さいお父さんが持って行った写真の中の、私たちのように。
「あの人、写真持って帰れたのね」
「じゃあ、お母さんがあげた水晶は、無事にお母さんに渡せたのかなあ」
お母さんは、急ぎ足で自分の部屋に戻った。それから、また私の名前を呼んだ。今度は、私もお母さんの部屋に向かう。
仕事机の前で、お母さんは視線を落としたまま立っていた。私が近づくと、お母さんは黙って机の上を指さした。
「あるわ」
「すごいね」
小さな水晶が、机の上に座っている。お母さんはそれを手に取ると、部屋の明かりにかざして眺めた。
「ちゃんと届いたのね」
お母さんは、ぼろぼろ泣いた。あまりにも突然のことだったけれど、私もつられて一緒に泣いた。嬉しいのか悲しいのか、寂しいのか楽しいのか、自分たちにもちっともわからなかった。だけど私たちはひたすら泣いて、お腹が空くまで泣いて、その後でいつもよりもたくさんそうめんを食べた。
私たちの夏が、静かに幕を閉じる音が聞こえた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。