11『D’ailleurs c’est toujours les autres qui meurent.』

 中学二年生の頃、マサチカンという大変不名誉なあだ名をつけられた。

 名付け親は丸井新太まるいあらた、クラスカーストは高くもなければ低くもない。下位者には面倒ごとを押しつけるくせ、上位者の前では露骨に委縮する。クラスの注目を集めなければ息をすることもままならないのかと辟易するレベルのお調子者で、下世話なバラエティの影響なのか、やたらめったら他人にあだ名をつけたがる趣味嗜好があった。

 兎角数を撃つものだから十発中九発は場をしらけさせるに終われど、ごくごく稀に


 そして、不幸にもマサチカンは刺さってしまった。


 ウケたという意味ではない。正親の自己主張の弱さと周囲の正親に対する関心の低さ。「キモい」などと蔑まれてのけ者にされるほどのランクではないが、さりとて正義感の強い誰かが庇うほどのランクでもない。まあ三船ならいいかと流されて、挙句クラスの一部にこびりついたのである。


 ある日、公園で猫と戯れる新太を見つけた。


 茶トラのハチワレ猫。首輪やハーネスの類は着けていない。頭上にかざされた新太の手を抱え、額をこすりつけている。まさしく、愛玩されるために家畜化を遂げた動物。

 そこに、誰より注目されなければと躍起になる新太はいなかった。

 アトピー体質でいつも躰をかきむしっている男子や何もかも垢抜けない女子を虚仮こけにして、何とか笑いを取らなければと。優位に立たなければと、必死になる新太はいなかった。


 等身大の丸井新太がそこにいた。


 その日──正親は気分が良かった。偶々足を運んだ図書館が偶々混雑していて、席が空くまでの間だけお願いと向かいに座った女子がなんかなと思っているあの娘だったとか、友だちから借りた少年マンガが存外面白かったとか。そういう色々が重なっていた。

 だから、正親は鼻をすすって。

 

 猫は、確かチョコレートで中毒を起こすのだったか。


 最悪死に至るのだったか。

 どのような種類を何グラム与えれば。

 そんなことばかり考えていた。

                ※

 放課後、国木戸に呼び出された。

 道中、窓から仰ぐ夕空は赤く黄色く陰鬱に暮れている。

 場所は男子更衣室。繫華街の袋小路や人気のない土手──通い慣れた私刑場ではない。しかし、あの喫茶店でないということは、暴力沙汰があり得るということ。

 ドアを開けてぞっとした。国木戸以外の姿がなかった。

 ここ数日を倍速で振り返る。"上納"が滞っている以外、特別スイッチを押し間違えた憶えはない。そもそも林や堀田と違い、正親は未納の代償として他メンバーの個人情報──グループ外で誰と交流し、誰と交際しているか、そういった付け入る隙を一部国木戸に流している。表向き、彼の統治が少しでも楽になるようにと。その働きぶりも踏まえて「国木戸のお気に入り」なのである。

 されど──。

 もはや、そうした道理が通じない相手ではある。


 先日仕置きが執行された折、国木戸が堀田の舌に煙草の火を押しつけた。


 唐突に口を開けろと命じて。短い奇声と共にくずおれる堀田。両手で口許を覆ってはいたが──舌を突き出したまま器用に息を吐きかけて、熱と痛みを逃そうと尽力しているのがわかった。上級生も声を失っていた。全責任はリーダーが負うもの、制裁を受けるのはリーダーただ一人。その誓約を他ならぬ国木戸が破ったからである。

 視線を一手に集めた国木戸の言い分は、こうだった。


「まあ、偶にはね」


 きろきろと左右の黒瞳こくとうが違った動きをしている。

 とどのつまり、仕置きの対象がリーダーだけでなくなる。

 正親は、視線のみを堀田へと動かした。

 雨に呑まれたような眼が、正親を睨んでいた。


「正親チャンの処分は、どうしよっかずうっと悩んでたのよ。この前やっちゃったじゃん? 堀田チャン。同期がみんな躰張ってんのに自分だけな~んもナシっていうのは居心地悪いでしょ?」

 よく言う。その居心地とやらはあなたが仕組んだものだろうに。

 林は背中に、堀田は舌に。自分はどこにやられる。

 目立たない場所という意味では──陰嚢が縮み上がる。


 可能性としてあり得なくはない。


 陽の微笑が脳裏を過ぎる。

 十四歳の冬を皮切りに、不平不満の芽を片っ端から摘んで回ったのは間違いだったのか。乱れ咲く悪の華に肩身を狭くして、暗がりをただじぃと見つめていればそれで良かったのか。

 土下座をした。額を地面に擦りつけた。

「林を──説得します。アイツ──ある男子にこだわっててコイツから何としてでもカツアゲしなきゃって周りが見えてないんです。堀田もそうだ。同じヤツに食って掛かったところで結果なんて出ないとわかっているくせに、林が怖くて言うことを聞くしか能がない。けど、俺ならちゃんと──巧く脅せます。脅して、大人しく金出しそうなヤツを選別できます。俺は林とは違いますから。粗探すの、弱み握るの慣れてますから。何とかしてアイツが結果を出せるよう巧くやりますんで。だから──」

 判っている、解っている。これは無駄だ。国木戸の目的は金ではない。彼は群れを率いて外に力を誇示したいわけではない。この人について行けば得をするかも、誰より優位に立てるかも、そんな期待を胸にのうのうと集まった下等を恐怖で支配することが目的なのだ。かけがえのない快楽なのだ。だから、この言い分は無意味だ。それでも、それでも──。


「何で二人しかいないと思う?」


 気づけば、国木戸のスニーカーが目前にあった。喉が強張る。爪先に歯肉つきの自身の歯を幻視して──しかし、蹴りは飛んでこなかった。

 頭上、わざと臭い溜息の気配。

「蹴れるわけないじゃん。俺は使えない下っ端に手ェ上げることはあっても、同じ志を持つヤツには手ェ上げないって決めてるんだから」

 同じ──志?

「だから、面倒臭いんだよ。正親チャンが俺と同じじゃあなかったら、選ばれていなかったら、殴って蹴ってテキトーに焼いてそれでお終い。なのに、正親チャンは使えないのに俺と同じ加護を受けている。地球から。下っ端としては使えないけど、この星を悪いヤツらから守りましょうって使命を帯びてる」

 ややあって、正親は歯嚙みした。睨みつけたい一心を眼前の床にねじ伏せた。


 この──典型的な異常者め。


 国木戸が、正親の舌を焼かなかったのは。陰ながらグループの統治に貢献したからではない。敵に回すことを厄介と判じたからではない。

 偏に同志だからである。

 誰より自身の主張に耳を傾けてくれる、いまだ誤答した試しのない、同じ宗教に属する信徒だからである。

「けど、お仕置きである以上はさ。厭がることしないとダメじゃん。こんな失態二度と晒しませんって死ぬほど後悔させないとダメじゃん。殴るのも蹴るのも焼くのもダメ。痛いことは全部禁止ってなったらさぁ、もうできる厭がらせとか限られてくるじゃん。ねぇ、正親チャン」

 問いかけが、巡る。 


「何で二人しかいないと思う?」


 なぜ、この男は──ズボンのベルトを外そうとしている。

 あり得ない。宗教上の理由から、信徒には手を上げられない。とはいえ、罰は与えなければ。厭がることを強いなければ。まさか、いくら妄信に突き動かされているからって。

「精一杯気ィ遣ったんだよ」


 その行いが、選択肢に浮上するのか。


 再度、床に額を押しつけた。この額を小一時間は剝がすまいと誓って。謝罪を念仏のように唱える。髪を掴まれ、強引に顔を上げられたりはしなかった。怒気を孕んだ言葉一つ、降ってはこなかった。まさちかちゃん。耳に這い寄るは、ただ一言。


「頼むよ」

 

 トイレの便座にしがみつく。嘔吐して、もどしたものを目の当たりにしてまた嘔気がこみ上げる。人差し指と中指を喉奥に突っ込んで、あれがなかったことになりはしないかと希う。いっそ腹を搔っ捌いて、臓物という臓物を取り替えてほしかった。この躰を野良猫のエサにでもしてほしかった。


 足許には、口の端に茶色い泡を湛えた猫が転がっている。

                ※ 

「今度はどこに火を押しつけるんだろうな。もしズボンを脱げと言われたら──そのときは察してやるよ」

 葛城陽が殺される。

 自分を置いて、ここではないどこかへ行こうとしている。

「惨めだな」

 あの日、廊下で鉢合った陽が嘲笑う。惨め。食いしばる。


 お前など──仕返しの一つもできなかったくせに。


 中学三年生の頃、自分が提出物を紛失したにもかかわらず、次からは気をつけろよと頓珍漢なことを言って、結局謝罪の一つも寄越さなかった歴史の教諭。その娘を公衆トイレに連れ込み、結束バンドで後ろ手に縛り上げ、大人しくなるまで腹に踵を浴びせてから、ハサミとバリカンを使って一厘刈りにした。

 向こうに十割落ち度があったにもかかわらず、正親にも至らぬところがあったと大岡越前を気取り、場を収めたふうを装った学級委員長。その祖母が老人ホームから買い物に出かけるタイミングを狙って、背後から思い切り蹴とばした。いまいち凄惨さに欠けたので、シルバーカーの中身をブチ撒けておいた。

 正親にはそれができた。

 小鼻を広げ発情することなく、ただ淡々と執行できた。

 葛城、お前にはできまい。


 できないのではなく、するまでもないのだ──と一蹴される。


 所詮、お前は耐えられなかっただけ。逃げて、弱い者に縋っただけ。歴史の教諭は野球部の顧問を務める強面だったものな。学級委員長は柔道経験者だったものな。可笑しいな、丸井新太はお前より幾分小柄だったと思うのだけれど。


 足許は、猫の死骸と女の毛髪とブチ撒けられたシルバーカーの中身で埋まっている。


 虐められたことがあるなどとよく言えたものだ。よく同じ目線で張り合おうという気になれたものだ。芽の一つひとつを自ら肥大化させて、誰より不幸を気取っていただけではないか。お前を不幸にしたのは他ならぬお前自身だ。あの日、林の妹を人質にとったから、正攻法で立ち向かわなかったから、監視下に置かれたのではないか。自業自得ではないか。

「歯を立てて折檻されないよう、今のうちに全部抜いておいたらどうだ?」


 ──葛城、お前を逃すわけにはいかない。


 ズボンの後ろに隠し持っていたネイルハンマーを晒す。ハンマーとしては小ぶりだったが、目的を果たす分には申し分ない。

「そんなもの抜いておいて、聞かなかったことにできるなんて思うなよ」

 当然だ。もう逃げたりはしない。

 猫の死骸も女の毛髪もブチ撒けられたシルバーカーの中身も何もかも蹴散らして。

 林の背中に迫る。もう搦め手には頼らない。

 地面が陰る。烈風が木々を揺らす。


 あの日、廊下で相対した陽はもういない。


 決意と共に振りかぶった。林の背中に、丸井新太と歴史の教諭と学級委員長と国木戸の顔が重なっては消えた。全部お前らのせいだ。

 くたばれ──。

「ひこうき」 

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