02『Strawberries and Cream』
他国の爆撃機編隊ではなかった。
地球上のどこにも存在しないはずだった。その扁平な体型の主──
無数の焼夷弾──ではなかった。
人型だ。
逆光で細部は未だわからないが、ヒトを模している。どよめきと携帯電話のシャッター音。
髑髏だ。
肉が落ち、されど淡紅色の
歩みに合わせ、揺らめくそれらが
生きている。
ぬらつきが、有機体であることを執拗に強調している。息をしている。
胸の悪くなる臭気が鼻をついて、
透の五、六メートル先、立ち尽くしていたビジネスマンの躰が、真っ二つに割れた。
髑髏が、棍棒のように発達した左腕を力任せに振り下ろしたのだ。頭頂から股下まで、開けた躰が
逃げ惑え。
逃走と──呼べるものではなかった。
まさしく惑うしかなかった。だって、もうそこかしこに居る。動作は単調だ。移動とてそう機敏ではない。ただ、逃げ場がない。全速力で、どこに走っていいかがわからない。叫喚と怒号。二、三メートル先に老婆が倒れていた。すぐ傍に、杖と紙袋が転がっている。良識人は何も言わない。役立たずめと罵って、透は老婆の許に駆け寄ろうとして──。
足首を掴まれた。
女子大生──くらいだろうか。うつ伏せのまま顔だけを上げて、溶けた飴玉みたいな右目で透を見ている。左目は小刻みに揺れて、割れた額と鼻から止めどなく血が流れている。未だ──降って来てものの数秒だろう。どうして、こんな状態の人がいる。衝突音。車両同士の接触事故か。独裁者と良識人が離せと言って、彼女の顔面を足蹴にする。冗談じゃない。透は、その場に屈んで。
彼女の指を一本ずつ引きはがした。
すみませんと声にならない謝罪を添えるだけ添えて。
視界の端──老婆の顔をちらと覗いて。アスファルトに広がる、到底助からないだろう量の血溜まりを見て。ほっとした。善かった。だって、生きていたら、また見捨てなければならなくなる。罪悪が増える。
地下ならまだ身を隠す場所があるかもしれない。目と鼻の先に青い「LUMINE EST」の文字。地下街に繋がる階段。点字ブロックまで差し掛かって、目を疑った。
黒い珊瑚だった。
魚鱗状に爛れたマネキンの手足が、群れを成してバリケードと化していた。
後退った。
見れば、タクシー乗り場──新宿駅東口の前にも同様の珊瑚が形成されている。いつの間に。襲いかかる轟音。反射的に頭を庇った。わからない。ただ、なにかが爆発したとしか──。耳は痛んだが、聴力は健在だった。いっそ失ってしまった方が、まだ正気でいられるのではないかと。
向かいの歩道を小学生の男女が、手を繋いで走っている。
背格好から判ずるに、前を走る女の子が年長者で、手を引かれている男の子が年少者。姉弟かもしれない。流石に小学生の時分ならば、透も妹より前を歩けていただろうか。おにいちゃん、ひとってしんだらどうなるの? あの問いかけに自分は何と答えたのだったか。背後に、髑髏が肉薄する。危ないな──と思ったときにはもう、男の子の首が宙を舞っていた。幾分軽くなった(あるいは突然重くなった)弟の躰につられた姉がつんのめって、振り向いた彼女の脇腹を。
顔を背けた。耳を塞いだ。もう走る気力さえなかったが、歩くことだけは止められなかった。イイ感じじゃんと誰かがせせら笑った。だから。
「だから、さっきから誰なんだよお前!!」
独裁者でも良識人でもない誰かが、腹を抱えて喜んでいる。
ふと見たビルの屋上に、十三歳の自分が立っていた。あり得ない。そもそも見て取れる距離ではない。あんなものは幻だ──とわかり切ったことしか言わない良識人を殴りつけ、透はそれを指差した。
「飛べよ! さっさと! 飛んでっ、一刻も早く死んじまえ! 飛んでたら、こんなことにはなってなかった!」
そんな──そんなわけがないだろうと、尻もちをついたまま異を唱える良識人の
──そちら側なのだから。
「よく言う」
学校にもあの雑踏にも。
結局、どちら側にも適応できなかったのがお前だ。
車道に、首輪をつけた犬が転がっている。下半身がなかった。襲われたか、暴走車両にはねられたか。赤黒い痕跡を辿るに、ほんの数十センチだが前脚だけで歩いたようだった。
ひとってしんだらどうなるの。
「案外──どこにも逝けないんじゃないか」
風鈴が鳴っている。
あの日、透と未紗季は庭を観ていた。縁側にふたり並んで、チューブ状の容器に詰まった氷菓子をちびちび
──死んだあともずうっと
土に埋められても、灰となり藍だけが残っても、鳥の血となり肉となっても。意識は際限なく攪拌されて。永劫横たわる白い
なぜか、海の深みにいる音がする。
遮られた。
まだそのときではないと、手前勝手に閉め出されたようで不快だった。
遠く、黒煙が上がっている。
星影のような血溜まりに、女性が一人横たわっていた。
ちょうど今年高校生になる子どもがいるくらいの年齢だろうか。オフィスカジュアルな服装で、辺りにはガラス片が散らばっている。透は上を見て、
目が合った。檻の中で安楽死処分を待つ犬みたいな目だった。
ここが、ニューヨークのマンハッタンであればよかったのに。
人々の体格はみな立派で、喧嘩中でも愛してるを伝えることは欠かさず、街角には然して美味くもない塩プレッツェルの屋台があり、ランチを食べようとデリに入ればいきなり外で銃声が響く。
そうしたら透は彼女の手を
透は、女性の躰を跨いで進んだ。
いっそ人非人だと見下げてほしかった。
どこか──爪弾きにされているように感じる。
髑髏たちが、如何なる感覚器官を以て人間を認識しているのかは定かでない。ただ、明らかに標的外とされているかのような。メインディッシュ──という単語が脳裏を過ぎる。笑えた。こんな一介の男子高校生を、否、男子高校生さえ
ただ、死にたくなかった。
息を殺して、感情を殺して、恐怖と不条理に呑まれるがまま、ただ
「ああ」
また、笑えた。
学校みたいだなと透は思った。
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