EXTRA『Scratch』

 三三二×二四二の無垢には、くたびれた雑巾ウエスが一枚巣食いつつある。

 広げるでも絞るでもなく、無造作に縁側へ置かれただけの対象と──片膝をイーゼルに見立て、鉛筆片手に向き合う兄を未紗季は見ている。斜め後ろから、彼の手許を覗ける位置から、三角に小さく躰をたたんで。


 ひそやかに、観ている。


 気まぐれに兄のうなじを団扇であおぐなどしてみる。

 石墨せきぼく色の陰影に、ダリの絵みたく人の横顔が隠れていることはない。機械油と赤錆に苛まれ、そこかしこを冒涜された、ようやっと原型を保てているに過ぎないただの布切れ。

 モップだとか、軍手だとか、使い古された長靴だとか。

 兄の題材モチーフは概ねだった。スケッチブックではなく、チラシの裏が支持体だったあの日から。いつ捨てられても不思議でないものばかりを。課せられた使命みたいに。


 ──俺が描かなかったら、描かないだろ。こんなの。まあ、誰が描かなくたっていいとは思うんだけどさ。


 この人は、引っ搔くように対象物を描く。

 小さな傷の錯綜で、美しくないものを克明にする。傷痕からさらに傷を上書きするものだから、いつまで経っても"完治"しない。さながら、古に葬られた呪術治療。もしくは、チラシを貼っては剥がしを繰り返し、テープの跡が層になった路傍の壁だ。

 風鈴はそよとも鳴らず、庭には沙羅樹シャラノキが咲いている。

 はたとあおぐ手を止めて、


「お花は描かないの?」


 問うてみた。

 没頭するあまり、返事がないならそれはそれで。

「──花かぁ」

 声色に気乗りのなさが滲み出ている。

 一旦口を噤む気配があって、

「苦手なんだよ」

 兄は、振り返りざまそう言った。

「どうして?」

「いや、花って描いてると品定めっていうか──見られているような感じがしてさ」

 見られている。

 幾重にも重なる花びらの奥まったところに──目玉。なら、とは言えなかった。きっとそういう問題でもないと思ったので。


「緊張するんだ。もともとが綺麗だし、綺麗に描いてねって言われてるみたいで」


 不安になるんだよと。

 兄は──花に臆する自分を少し嫌いそうに笑った。

「そっか」

 そういうものなんだという未紗季の返事で小休止はおしまい。

 兄は再びスケッチブックへ向き直り、未紗季はまた彼の項へ涼を送る。


 風鈴が、時を取り戻したかのように揺れる。


「疲れないか、それ?」

「いーの、好きでやってるから。王様気分でしょ」

「王様はこれ描かないだろ」

「わからないよ? ノブレス・オブリージュの精神」

「あー、惜しいようで惜しくない──のか?」

 真新しいそうが刻まれて、古い傷痕はより深くへ沈む。

 絵の良し悪しはわからなかったが、あなたのく狭い世界は好きだった。

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