葛城 陽

08『Salamander』

 蛍光灯の明かりばかりが、不愉快なほどにはっきりしている。硬い床の感触、壁にりかかった格好で──葛城陽かつらぎようは、目を覚ました。小便器、個室トイレ、鼻をつくアンモニア臭。なぜ、ここにいるかが思い出せない。頭が、ひどく痛かった。

 髪に手を伸ばして、ねとりと何かがまとわりつく。指先から付け根まで、真っ赤に濡れそぼっていた。頭のあちこちを探れど、痛みはない。傷らしい傷はどこにもない。


 ──痛みは、ない。


 シャツの裾をまくって、腹部を露わにする。目立たないところだからと執拗にやられた、誰にもバラすなよと念を押された、あのあおぐろはどこへ消えた。擦れる度、陽の眠りを妨げたあの烙印のかさねはどこへ失せた。はっとする。さんざまさぐってしまったものだから──あちこちに赤い手形が咲いていた。


 冷笑。


 頭から血を被り、こんなところにへたり込んでおいて、何を今さら。

 頬の内側と奥歯の隙間に違和が潜む。舌と、血がついていない方の小指で掻き出した。

 破れた蛾のはねだった。

                ※

 濁った水の上には、コバエやら蛾の死骸が浮かんでいる。透明なカップに入ったそれを陽は一息に飲み干した。見せつけるように、蠢く喉を晒して。嘔気を誘う酸っぱさの中、意外と──甘みがあるのだなと思う。舌で集めた塊を奥歯ですり潰す。水ぶくれしたスナック菓子みたいな食感だった。

 目の前で、三人の男子が硬い顔をしている。

 携帯で陽を撮影していた堀田ほったのニヤケ面も完全に引きつっていた。それはそうだろう。彼らが記念として残したかったのは、厭だ飲みたくないごめんなさいとわめき散らかす陽であって、差し出されたそれをひっ掴んだ挙句、一気呑みする物狂いいかれなどではなかったはずだ。

 はやしにカップを突き返す。ただ、一向に彼がそれを受け取ろうとしないものだから、陽は渋々口を開いた。


「捨てといてくれる?」


 殴られた。いつもの定番コースだった。

 顔はあまり殴られない。全くというわけではないが、下手な言い訳で繕える程度にはやられる。服を脱がない限り、第三者の目に入らない部位を重点的に殴打され、足蹴にされるのだが──。

 毎度のことながら、思う。

 これはストレス解消になるのだろうか。こんな気を遣いまくった暴力、かえって溜まってしまいそうなものだが。

 ちょろちょろと前髪を滴り、喉を伝い、胸元に広がる炭酸水の末路に胸を痛めながら、林の捨て台詞を聞く。

「次は準備しとけよ葛城」

 瞳は、刹那的な達成感にぎらついている。

 笑えた。その笑いに、少なくとも林は気づいたはずだ。ただ、察してしまうものがあったのだろう。他の二人を促して、足早に立ち去ろうとする。

 ──逃がすつもりはなかった。


「お金、踏み倒してるけど大丈夫なの?」


 三人の足が止まった。我ながら厭な言葉を選ぶ。

 もともとこの仕置きは、陽が支払日を守らないがために始まったものだ。支払日といっても彼らから何かを買った憶えはないし、借りた憶えもない。身勝手で一方的なルール──弱者は強者が求めるものを、無条件に差し出さなければならないらしい。


 かれこれ一ヶ月、陽はその催促に応じていなかった。


 親の財布から金を持ち出すことに後ろめたさを覚えたわけではない。真っ向から戦う意志を固めたわけでもない。どうせ払えなくなったら、こうなるのだ。早いか遅いか、それだけの話。そこに、至れるくらいには──。


 陽は自分を愛してはいなかった。


 ただ、いざ支払いを拒んでみると──これまで渡した分が一体どこに消えたのか、純粋に興味があった。遊び目的で使うのだという主張は、どうにも虚勢を張っているようでならなかった。だから、

「痛そうだね。背中」

 嘘。背中を気にするような素振りなどなかった。ただ、林の顔を見るに図星ではあったのだろう。

「この前、タバコ背中に押しつけてきたろ? すぐにわかった」

 それまで暴力のバリエーションに貧相だった連中が、あの日突然自分の背中を灰皿代わりに使い始めた。あれは。


「ああ、これは仕返しだなって。けど、された相手にはビビッてできなかったんだろ? 先パイ先パイといっつもペコペコしながら、顔色伺いながら"上納"している奴らには。お前らがゴミみたいに虐げている奴が金出してくれなくなったから、ゴミみたいに虐げられているんだろ」


 林の顔が、険しくなってゆく。指の端がポケットの凹凸へと伸びて──けれど取るには至らなかった。。堀田が林の肩を掴んだ。もう行こうぜという催促に、陽は言葉を被せる。

「どうせ明日も明後日も同じだ。殴って蹴って、溝水を飲ませて、そうやって何かを成し遂げた気になっている。けど、わかっているんだ。もうコイツからは何も奪えない。これは時間の無駄だ。労力の無駄だ。明日も明後日も怖い先パイに詫びを入れなければならない。なのに、僕を諦めきれない。──負けたような気がするからか?」

「葛城てめぇ!」

 堀田が形ばかりの吠え声を上げる。そう、形ばかりの。大方、林が頭を冷やす時間を稼ごうという腹づもりなのだろうが──。林に的を絞る。

 逃しはない。

「違うよな? 行き止まりなんだよ。もう他に方法が思いつかないんだ。どうしたらいいかがわからないんだ。頭に蛆が湧いてるんだよ。僕もお前も。頭皮の下でうじゃうじゃうじゃうじゃうねっている。片っ端から食い荒らされているんだ。だから、明日も明後日も変われない。同じ時間、同じ場所で僕を殴ってるんだ。本当は何一つ成し遂げてなんかいないのに」


 一歩も動いていないんだよ、お前は。

 生まれたときからずうっと。


「今度はどこに火を押しつけるんだろうな。もしズボンを脱げと言われたら──そのときは察してやるよ」

 林が、ポケットの中身を晒した。恫喝用というより護身用。彼の図体とは不釣り合いな細身の折り畳みナイフ。悪あがきとばかりに歪めた口唇が、あまりにも──あまりにも馬鹿げたことを言おうとしている。

「今なら──」

「聞かなかったことにしてやるなんて言うなよ」

 林が、目をむいた。震える瞳が静止した。


「そんなもの抜いておいて、聞かなかったことにできるなんて思うな」


 堀田の手が振り解かれる。赤黒い顔をした林が、こちらに近づいて来る。

 陽は──足を投げ出したままそのときが訪れるのを待っている。

 これでいい。早いところ、滅多刺しにしてくれ。

 怒りと怯えの数だけ殺してくれ。

 お互いこれでお終いだ。

 まとわりつくは天使の手。ここではないどこかへ誘う女神のささやき。


 さあ、世界にいとまを告げましょう。


 真白き手の窪みが。

 耳を塞いで、瞼を塞いで。

 触るなよ。

 その清らかぶった肌を汚泥と膿に塗れたこの肌に重ねてくれるな。

 さも明日がやって来るかのような甘言を好き勝手並べてくれるな。

 

 この苦しみの暗い暗い一滴さえ、明け渡してなるものか。


 地面が陰る。背を預けていた壁が幽かに震える。天に向かって唾でも吐いてやろうかと。

 陽は、空を見上げた。

「ひこうき」

                ※ 

 後頭部を壁にぶつけてみた。弾みで続きが再生されたりはしなかった。それより先が思い出せない。ただ、トイレで目が覚めて。誰のものかもわからぬ血液を被っているあたり、どうせ──ろくなことが起きていない。

 ホースを手洗い場の蛇口に突っ込み、和式便器の方まで引っ張って頭を洗う。薄まった血と組織片めいたものが、便器に流れてゆく。どう見てもスプラッタ映画などでしかお目にかかれない量。タオルはおろかハンカチもないので、手で水気を払った末、自然乾燥に任せる他ない。

 鏡を見た。だらしなく垂れた前髪の隙間から、覇気のない目が覗いている。

 

 何が、いけなかったのだろうと。


 中学生だった頃の陽が泣きごとをもらす。止せ。かつての自分を睨みつけた。理由なんて、求めるだけ不毛だ。目? 鼻? 口? 髪? 肌? 虐めてくる奴らに道理などない。あのとき、ああしていれば無視されずに済んだのかな。一人の人間を寄ってたかって虐げていい、そんな道理などあって堪るものか。あのとき、ああしていれば殴られずに済んだのかな。違う、そういう次元じゃあない。死ねよと言われずに済んだのかな。わかっているはずだ。考えるな。自分がもっと明るくて、賢くて、優しかったら、あるいは──。

「あるいは」

 足首に、転がってきた手毬が当たる。

 陽は、明るい方へ身を委ねた。


 初めてそれが訪れたのは、中学二年生だった頃。

 至るところに傷を押し隠したまま、陽は重い足取りで帰宅した。待っているのは、呼吸することさえはばかられる、凍りついた空間。あなたたちの息子は虐められている──その事実を受け容れてほしくて、わざと顔に切り傷をつくったこともあったが。


 両親は、見て見ぬふりをした。


 体裁ばかりを気にして、出来の悪い自分を無き者とした。

 階段を上がり、逃げるように自室へとこもる。今日は、どうして。ふと、足首に何かが当たる。紅い手毬が、転がっている。あり得ない──とは思ったが、見えているし、しかと当たったのだから仕方がない。屈んで、手に取った。視界の端に足が映った。


 白い鼻緒に白い下駄を履いた、おんなのこのあし。


 気付けば、カーテンがレールから外れていた。本棚が倒れている。引き出しやクローゼットの中身が散乱している。一瞬、まるで多動性障碍の大型犬が暴れ回ったようだと逃避して──異常者がやったのだという袋小路に至る。ふと、手許を見た。カッターナイフを逆手に握ったまま、ドアノブに手を掛けようとしているところだった。


 何より恐ろしかったのは、これが激情の果てではなかったこと。


 どこからともなく手毬が転がってきて──陽は、それを拾わざるを得ない。持ち主である少女に、返さなければという衝動に駆られる。

 少女の顔を陽はいまだに見たことがない。


 と、随分風通しが良くなっていた。窓ガラスが大きく口を開けている。暗くなったように感じるのは、蛍光灯を破壊したせいだろう。蛍光管と鏡の破片が入り混じって、児戯に踏み砕かれた病葉わくらばの様相を呈している。手には、ヘッド部分のないブラシを握っていた。掌に、まだ痺れが残っている。


 お前がやったのだと物語っている。


 ああ、しかも。

 ところどころ不明瞭ではあるが。

 思い出したではないか。あの"飛行機"を見上げて以降何があったのか。

 落ちてきた人型。生きている髑髏どくろ。目につくヒト属をことごとく叩き潰し、肉塊へと変える異形。陽は、そいつらから逃げて、押しのけて、逃げて、転んで。

 前髪を弄る。まだ、ぬめっているような心地がする。


 逃げて、どうした。


 くすくすと少女の笑い声がする。笑うなよ。大体こののせいではないのか。この娘が、自身の領域を一部奪ってしまっているのではないか。足許──鏡の欠片に落ちる自分の表情は、どこか柔和ですらある。

 ブラシをカラカラと引き擦りながら、陽はトイレの外に出た。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る