09『Ferris wheel』
一組の教室。
二人の男子が素手で殴りあっていた。右腕のみを使って、代わり番こに。もう、
その二人を複数人が囲っていた。野次るでも仲裁に入るでもなく、ただ見ている。生徒や教師の他に部外者も混じっているようだった。決着がついて──どうなるのだろう。一心はさておき同体なのだから。
敗者の亡骸を引きずりながら余生を送るのだろうか。
男性が一人、窓に体当たりをした。滅多無尽に窓を叩きながら、血涙を流しながら、何かを必死に訴えていたが。ガラスには、ヒビひとつ入らない。陽の許まで嘆きは届かない。無音のパニック映画を観ている気分だった。誰一人として、男に一瞥もくれなかった。ああ、林たちが記念に残したかった葛城陽はこうあるべきだったのだろうなぁと思いつつ、陽は視線を切った。
二組の教室。
あちこちで性交渉が行われていた。スピードデートさながら、決まった時間でパートナーが入れ替わるシステムらしい。随時、一様に"局部"が変形している。両性具有。見れば、さっきまで男性としての律動を見せていた人物の胸板が、組み敷かれた今は女性的な丸みを帯びている。犯しているつもりが犯されているのか、犯されているつもりが犯しているのか。誰も、陽の存在に気付いていないようだった。
教室の隅で、四肢のない裸の男子を抱き締めたまま、わんわんと泣いている裸の女子がいた。
その二人だけは、どの部位もありのままであるように見えて。何故だか、それが一番見てはいけないものであるような気がして、陽は視線を逸らした。
三組の教室。
本来ならば教卓のあるべき位置に、三人の生徒が両腕を上げた格好で吊るされている。いずれも目隠しをされており、意識の有無は定かでない。蝶ネクタイをつけた男が、奥にいた女生徒の鳩尾にナイフを突き刺し、下腹部まで一気に切り裂いた。内容物が床に晒される。教室の後ろには、身なりのいい大人が三人座っていて、点数のついた札を上げている。この凶行の、何かしらを採点しているらしかった。二人目、三人目。いずれも──反応はない。とうに息絶えているのか思いきや、一人目の女生徒が絶叫した。爪先が床をしきりに引っかいている。内容物が、啜られる太麺のように彼女の腹腔へと収まってゆく。そのタイミングで、痛むのか。そして、収まったということは。
また、繰り返されるのだろう。
どこからか、空風が吹いて。
肉は見る間に盛り上がり、
お前を殺し足りないという想いが、お前をここに留まらせる。
だとすれば、ここは一〇〇〇
首筋に、手が伸びた。笑える。頸動脈が打っているとはいえ。これが、何の証になるというのか。幽霊になれば、足がなくなると誰が決めた。化け物に殺されたとして、脈くらいは打っているかもしれないだろう。
「ざまあみろって思ってるでしょう?」
中学生だった頃の陽が、知ったふうな口を叩く。頬には、これ見よがしな切傷がついている。
「罪福応報、因果の法だよ。僕が虐められている間、アイツらは何もしてくれなかった。一緒になって僕を虐めるか、見て見ぬふりをするか。なるべくしてこうなったんだ。現に僕はこっち側にいる」
陽は、無視をした。
こちら側が浄土で、あちら側が地獄だとして──悪事に手を染めなかった者の眼福がこれか。背後で、手毬が弾む音。呼ばれなくたってわかっている。来た道を戻る過程で、再び教室を見やった。
誰か一人くらい、心を奪う者がいてもいいのに。
初恋のあの娘が女とも男ともつかない躰で交接に耽っているとか、高校に入学して初めてできた親友が誰かと繋がれ殴りあっているとか。
何一つ、足を止める理由がなかった。
葛城陽の日々は、今日まで誰にも彩られてこなかった。
※
足の踏み場もないほどに、ファイルやプリントが散乱している。職員室──ここにたどり着くまで、"動く者"の気配はなかった。臭気が
とある机で、足を止めた。
椅子に、目指していたものが
四十半ばの無精ひげを生やした男だった。開いたはさみが眼孔に押し込まれて、
となるとこれは──。
「よかったじゃないですか」
知らず、言葉を発していた。
男は、陽のクラスの担任だった。
一度だけ、何を血迷ったか彼に打ち明けたことがある。自分は虐められているのだと。解決を期待したわけではない。そもそも、打ち明ける以前から、担任はその存在を認知していただろう。林たちは、極力目立つ部位は殴打しないを信条にしていたらしいが、それ以外の隠蔽工作はあまりにも陽頼みだった。
案の定、仔細を承知した担任は、帰りのホームルームで二三注意をしただけだった。
「どうせ何も見えていなかったんでしょう」
眼球があろうとなかろうと関係ない。彼の目が、まともに生徒を映したことなどなかったのだから。ネクタイを掴んで、引っ張った。躰が、造作もなくうつ伏せに転がって。その拍子に、はさみが抜けた。得物を──握る手が汗ばんでいる。両手で、祈るように振り上げた。
「最初から、期待なんてしてなかった」
一打目。鈍い音が、職員室だった空間に響く。
「僕は、知ってほしかったんだ」
二打目。側頭部を捉えた。首の軋む手応えがあった。
「誰でもいいから、僕の痛みを」
三打目。四打目。萎え切った口から、折れた歯が飛んだ。
「皆、この苦痛を味わえばいい。そうしたら、僕を虐めたりなんてしないだろ? 虐めをなくすなんて、ホントは簡単なことなんだ」
五打目。六打目。七打目。歪んだ視界が熱い。
「簡単なんだ。ホントは、なのに、どうしてっ」
八打目。九打目。十打目。もう、黒い塊にしか見えない。
「どうして、誰も気付かないんだよ!」
得物を真横に振るった。築かれていた書類の山が崩れた。幾枚のプリントが宙を舞う中、返した一振りが開かれたノートパソコンを直撃する。液晶が厭な音を立てる。
「僕だって、好きでこんな顔に生まれたんじゃない!」
担任が座っていた──座っているように見えた椅子の背もたれを掴んで、床に叩きつける。
「好きでこんな性格に生まれたんじゃないんだ!」
壊す。壊し続ける。壊せるものを片っ端から。
再び、担任へと振りかぶった。振りかぶって──それきりだった。総身が、震える。
もしも、今ここに自分の表情を落とす鏡があったなら。
その瞳は、刹那的な達成感にぎらついているだろうか。
「どうして」
唇が、そう
眼に溜まった涙が、ぼろぼろとこぼれ出した。
──なつかしいね。
瞳の奥が
「好きで、ここに生まれたんじゃないんだ」
両の掌を見た。
涙の滴を受ける、両の掌を見た。
「でも、生まれた以上はここでやっていくしかないじゃないか」
痛くても、苦しくても。
「やっていくしかないじゃないか」
両腕が、動かない担任を引き寄せる。何もかも失った躰は重かった。陽の唇が、動いているのかいないのか、わからないくらいの幽かさで。何かを結んでいる。傍らで、何かを結んでいる。
「ざまあみろって思ってるでしょう?」
中学生だった頃の陽が、知ったふうな口を叩く。
陽は、かつての自分に手を伸ばした。頭髪を鷲掴みにする。引き寄せて、空いた手で持ったはさみを、開いた形のそれを彼の涙袋に突きつける。
「お前、何か勘違いしてるだろ」
距離は、吐息が触れ合うほどに近い。
かつての自分が、泣き叫ぶしか能のなかった自分が怯えている。現実から少しでも遠ざかりたい一心で、眼球がぎゅうと縮こまっている。
「ざまあみろなんていうのは──復讐なんていうのは、自分が好きで好きで堪らないヤツがやることなんだ。奪われた何かを取り戻したくて、それで何ひとつ返ってこないと解ってはいても、何かで穴を埋めたくてやってしまうものなんだ。戻りたかったあの頃に戻りたい。正常だったかつての状態に戻りたい。そういう祈りをこめてやることなんだ。まさしく──自分が可愛い真人間の所業だ」
刃先を、これ見よがしな頬の切創にあてがう。じりじりと引けば、鮮血が滲む。手毬は──どこにも転がっていない。構うものか。今の自分なら、もう行きたいときにそちらへ行ける。
裂かれた
「僕には、戻りたいあの頃なんてない。正常だったかつての状態なんてない。僕がたったいま涙を流したのは、癒されてしまったと思ったからだ。吐いた呪詛と捧げた祈りの数だけ、胸が軽くなってしまった。葛城陽という罪人に僅かばかりとはいえ安息を与えてしまったからだ」
ぷつりと破れる感触があって──。
目頭に
「罪福応報、因果の法と言ったな。こちらが極楽で、あちらが地獄などとほざいていたな。抜かせ、こちらも地獄だ。責め苛む獄卒がいないのは、すでに間に合っているからだ。葛城陽を苦しめるのは他ならぬ葛城陽の役目だ。僕の地獄には、獄卒もお前も要らない。ざまあみろなどとまともぶったことを抜かす真人間風情も必要ない。居て──堪るものか」
ここは、一〇〇〇
明るい方へ。明るい方へ。一息に刃を突き入れる。
──白い鼻緒に白い下駄を履いた、おんなのこのあし。
もうすぐ、あの少女に会えるような気がした。
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