10『Xocolatl』
十四歳の冬、クラスメイトが可愛がっている猫にチョコレートをあげた。
※
高校に入って半月、どうもタチの悪いクラスメイトから目をつけられているようだと
だから、搦め手をとることにした。
放課後、人通りのない視聴覚室前に呼び出された。都合よく二人きりだった。
開口一番金をせびってくる林に向けて、正親は携帯の液晶画面を見せた。林の顔面が強張る。林の妹が笑顔で友だちに手を振りながら、自宅に入る瞬間が映っている。
「君の妹が通っている中学を知っている。登下校のルートも把握しているし、言葉に遅れがあって、今もカウンセリングに通っていることも知っている。君のお母さんが娘のためを思って言語治療の支援活動に参加していることも知っているよ? 金をやるつもりはない。殴りたければ殴れよ。ただ、俺に手を出したら──この
林は、拳骨をつくるだけつくって──何の捨て台詞もなくその場を去った。
正親にとって意外だったのは、恐喝を何とも思わないあの男が、妹を人質にされたくらいで大人しく引き下がったことである。
ハッタリだ。どうせ何もできっこないと詰められたら、手始めに女子中高生と肉体関係を持ちたくて堪らない有象無象が群がるサイトに、住所と登下校のルート付き顔画像をバラ撒く手筈まで整っていたというのに。林の妹の見てくれはそれなりだが、一度きり、何なら力ずくでも構わないという輩にとって、思った通り言葉が出ないのは色々と好都合だろう。
──思った通り、言葉が出ない。
あらためて口の中を転がしてみて。
なるほど林がああなった一因はその辺りかもしれないなとお節介にもあたりをつけて。
「──ふぅん」
目線を宙にやった。あんな異常者にも守りたいものがあるのだ。
三船正親には、あるだろうか。
足許には、口の端に茶色い泡を湛えた猫が転がっている。
「仕方ないだろ」
それっぽっちで、死ぬように出来ているおまえが悪い。
程なくして、林たちとつるむ羽目になった。
きっかけは
「三船正親チャンってキミ?」
そう尋ねられたとき、正親は首肯も否認もままならなかった。
ただ、男の纏う雰囲気に吞まれた。
「林から色々聞いたよ。確かに──頭良さそうな面してる」
獣のたてがみを彷彿させる乱れた短髪。先天なのか癖なのか威嚇なのか、時折左右の目がカメレオンみたく違った動きをする。林がゴリラなら、さしずめこの男は人狼。ハロウィンの夜か、ドラッグでラリっているときにしかお目にかかれない、いてはならないもの。全体的に粗暴な印象を与える中、いやに小綺麗なスニーカーが浮いていた。
「遊びに行こうぜ。正親チャン」
肩に腕を回され、意気揚々と連行された。
道中──ファッション業界は年間二十一億トンもの二酸化炭素を排出しているだとか、俺たちの着ているもののほとんどは石油からできているだとか、これからは天然素材の時代でいま俺が履いてる靴がエシカルなんだとか。
兎角、やたらグリーンな話を熱っぽく振られた。
正親は片頬に愛想笑いを貼りつけ、はぁとかなるほどとか頷くほかなかった。
辿り着いたのは、渋谷駅から歩いて五分──場外馬券売場のほど近くにある喫茶店。店内を入って右手、最奥の四人掛けテーブルに上級生と思しき連中が座っていた。そのいかにもな面々を見て、正親は身震いした。
今、肩を組んでいるこの男が一番危ない。
ウチに来ないかという誘いだった。
語尾に一切の疑問符はなく、拒否権はなかった。
正親を国木戸のグループに推したのは林だった。能力を買ったわけではない。傍に置いておいた方が、妙なマネができないと踏んだのだろう。正親としては恐喝や窃盗を娯楽とするような一味に加わるなど御免であり、何とかメンバー全員の弱みを総ざらいにして抜けられないものかと苦心したが──。
問題は、国木戸竜馬という唯一だった。
守るべきものがある人間に対して、正親は強い。
繋がりを嗅ぎつけ、追跡し、一週間もあれば射程圏内に捉えることができる。興信所の調査員顔負けの尾行スキルがあるわけではない。どこにでもいる十六歳、街の情報通に
ただ、誰より執念深く、諦めが悪いだけ。
自分に直接危害を加えた張本人ならまだしも、その親類縁者を苦しめるだなんて──そういう価値観が当たり前を占める中、正親には苦もなくそれができた。
女子どもだろうが、年寄りだろうが、犬猫だろうが。
小鼻を広げ発情することなく、ただ淡々と執行できた。
それだけが、正親の生き残る強みだった。
しかし、他のメンバーには手を出されれば困る繋がりが見える一方、国木戸にだけはそれが見えなかった。当然帰る家があるにはあったが──侵したところで折れるビジョンが見えなかった。
兎角、逆鱗の在り処がわからぬ男だった。
煙草を吸っても怒りはしないが、ポイ捨てしようものなら烈火の如く
彼の前では各自携帯灰皿の所持が必須だった。それも、国木戸から配られた全員が全く同じデザイン。チームTシャツみたいなもんだ──と国木戸は笑った。携帯灰皿なら何でもいいと誤解した二年生が、即刻掌を灰皿にされていた。
正親たちを呼びつけては、気候変動に関する即席講演会を催すこともあった。
温暖化によって熱波と豪雨の確率が高まる、永久凍土に眠っていた未知の細菌が目を覚まし、気候変動によってウイルスが進化する、今地球で多発している"人災"の背景に温室効果ガスが関わっていることを大衆のほとんどは知りもしない、いずれ人類は地球に住めなくなってしまう──トカナントカ。
口角泡を散らかす熱弁は、しかしそこそこ解りやすかった。
聴く振りをしていれば満足なのだろうと高を括っていると、途端クイズを出題される。
不正解なら、水を張ったバケツに顔を押し込まれる罰を受ける。
正親は未だ誤答した試しがないので。そういう意味では、彼のお気に入りであるようだった。
葛城陽がはじめて支払いを拒否したとき、林は彼の腹に拳を飛ばした。暴行の末、頭から炭酸飲料をかける屈辱を与えた。
妙な──違和があった。林に殴打される陽の反応。まるで、ヒーローに扮する息子の必殺技にやられた振りをする父親のような、こうした方が嬉しいんだろうとでも言いたげなわざと臭さ。
去り際、あれほど痛めつけてやったのだから次回には用意しているだろう──という林の頓狂な見立てに、正親は啞然とした。
あの男から、もう二度と金は毟り取ることはできない。
振り返る。
全責任はリーダーが負うもの──というのが国木戸の方針であり、ノルマを達成できなかった際の仕置きを受けるのは一年のリーダーである林の役目だった。仕置きの場所は、ときに繁華街の袋小路だったり、人気のない土手だったりした。
数あるペナルティのうち正親がもっとも忌み嫌ったのは、縛られた無抵抗の林を国木戸がいいと言うまで、自分と堀田で殴り続けるというものだった。当然、加減は許されない。ぬるい箇所ばかり殴っていると、殴る部位まで指定される。指根部が腫れて、皮が捲れて、滴った血が正親の靴を汚して。
鼻血塗れの林から、炯々とした眼で見上げられたとき──。
正親は、察した。
国木戸竜馬が見たいのは、これだ。
林の溜まった鬱憤の矛先は堀田に向かう。正親が殴られることはなかったが、眼を見ればわかる。殴りたくて仕方がないという顔をしている。堀田もまたサンドバッグにされない正親を恨みがましい眼で見ていた。
映画やドラマでよく見る"健全"な不良の姿などどこにもなかった。
正親たちは、互いが互いを憎悪していた。
もし、三人に等しく仕置きが行われていれば、いずれ矛先は国木戸に向かっただろう。何なら三人が同じ苦痛を味わうことで、結束力でも生まれたかもしれない。リーダーが全責任を負う体系を作れば、必然素質がないこの男は自身の無能さを配下に押しつけざるを得なくなる。
もっと早くに気づくべきだった。
他の先輩連中がどうかは知らない。が、少なくとも国木戸はただ小銭を集めて満たされるような男ではない。
これなのだ。
不信の果てにいがみ合う、
もし、集金の効率化だけが目的ならば、最初から飲み屋街で酔っ払っているオヤジを狩ってこいとでも命じればいい。
案の定、林は陽に執着した。
仕置きによる打撲痕、焼印が増える度、彼の視野は狭窄していった。
堀田も陽に時間を費やすことは無駄であると内心気づいているようだったが──意見するには至らなかった。
葛城陽から金を取ることはできない。あれは痛めつけて金を出すようなタイプではない。もっと別の方法を考えるべきだ。
意を決した、正親の進言に林が耳を貸すことはなかった。ひと睨みされて、お終いだった。
今はまだ妹の身が可愛い。二つを天秤に乗せたとき、妹の安否が勝る。
いつ──均衡は崩れる。
三人が結託して、国木戸に立ち向かう未来はない。
放課後、廊下で陽と鉢合わせた。
正親は周りに林と堀田、国木戸の一味がいないことを確認してから、陽に尋ねた。
「どうして──やり返さない」
陽は、目を合わせない。
殴るなら殴れと、
揺さぶられている心地がした。
──どうして生きている。
その問いは心の裡にとどめたか、あるいは。
「虐められたことは」
語尾があまりにも平坦だったものだから──それを質問と判ずるには、やや時間がかかった。
正親は、知らず拵えた拳を一瞬ポケットに押し隠そうかと迷って、結局止めた。
「──ある」
中学二年生の頃に。
だから、復讐をした。大事なものを奪ってやった。守りたいものがある人間は脆いと知ったし、これが自分の生き残る強みだと学んだ。
「虐められて、仕返ししたいと思ったことは」
「──は?」
笑うに笑えない。それは、ある。あるだろう。やられっぱなしでなどいられるか。こっちは連中が憂さを晴らすために生を消耗しているわけではないのだから。
「そう」
陽は、ゆるりとこちらに目を合わせて──笑った。
初めてこの男の感情を、これほどに生気のない微笑を見た。
それ以上、会話はなかった。
屍人然とした足取りが、正親の横を通り過ぎる。一方的に、背中を遠くしてゆく。
暴力を振るわれている間も、陽は頑なに目を合わせようとしなかった。林とも堀田とも。
初めて覗き込む許しを与えられた瞳は──正親を見下していた。
大事なものを奪うことを唯一の報復手段とした正親を。
かけがえのない強みとする正親を。
下に、見ていた。
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