07『Sprinter』

 未紗季の背中が遠くなってゆく。

 右手にはオブジェと化した戻らぬ日々、左手には弄ばれる青少年たち。大人になれないまま生涯を終える。未紗季は、あんなに足が速かっただろうか──そう思ったときにはもうからだがスタートを切っていた。

 走りが浮いている。落ちてほしいところに足が落ちている。

 すごく気持ちが良かった。


 日野つかさが短距離走という種目を選んだのは、ひとえにシンプルだからである。

 ランニングにおいて大切な要素は大きく分けて二つ、一歩の長さストライドと足の回転数。競技を行う上で、最低限必要なのは距離を測ったまっ平らな地面。敵はいつだって過去の自分。昨日の自分よりいい成果を出したいという欲求をただ満たせるよう努めるだけ。

 その明快さが性に合っていた。


みやちゃん、今日の爪秋っぽいね」

 休み時間──未紗季の発した何気ない一言に、つかさは顔を僅かに強張らせる。宮本朱羽みやもとあげはがマニキュアを塗っていることには朝から気づいていた。ただ、秋っぽいというセンスがどうもピンとこない。グレーとベージュを混ぜたような色は秋っぽいのか。

「気づいたぁ~ミサミサ? カワイイっしょ?」

「可愛いけど──バレないように気をつけなよ?」

「ヘーキヘーキ。私、松岡まつおか抱き込んでるから。そういうミサミサはぁ──」

 朱羽はそこで言葉を切って、未紗季をまじまじと観察した末──。

「ぇあ~、どっか変わった?」

 長いまつ毛に縁取られた目をすがめるに終わる。

「うーん、特に何も」

「いや、思うじゃん。ンなフリされたら。私の違いにも気付いて的なアピールだって思うじゃん」

「私は、今日も宮ちゃんはオシャレだなぁと思って言ってみただけですぅ」

「おっ、カワイイなぁコイツ。ちゅっちゅしてやろうか? ん? まっ、小細工しなくてもミサミサは仕上がってるからなー」


 こういうテンポになると、つかさは聴き役として徹する他ない。


「おい、宮本ぉー」

 一人の男子が、英語の教科書片手に近づいてくる。隣のクラスの大渕おおぶち。大方わざわざそれを献上に来てくれたのだろうが──当の朱羽は立つ素振りさえ見せず、椅子を前後に揺らしている。

「なにー? この前貸したAV返せって? レンタル期間短くない?」

「お前──そういうの信じる人いるかもだからな?」

 言って、大渕が未紗季に一瞥をくれる。そんな不安そうな目をしなくても、未紗季のあなたに対する評価はもとよりそう高くないぞと心の中でツッコミを入れる。差し出されたそれを朱羽はどーもねーの一言で受け取った。

「なあ、こういうのってフツー借りる側が取りに来ねぇ?」

「ブチ知らんのー? JCは日本の最上級国民よ?」

「あー、家出なうって呪文唱えたら神が迎えに来るし?」

「そそっ、で、バーキンとか奢ってくれる」

「そこマックじゃねーのクッソリアルな──あのさ、水原さんの前だしこのノリ止めん?」

 私の前でもあるけどな──というツッコミは、これまた心のうちに押し留める。

 未紗季は、両手で口許を隠してくすくすと笑っていた。どうせ愛想笑いなのだろうが、どうだろう。彼女のそれに限っては、正直見抜ける自信がない。

「大渕君は──」

 すっと雰囲気の色を直して、髪を耳にかける仕草。


「私に、そういうこと知っててほしくないって思ってるんだ」


 瞳は、てらり焦がした飴のようなからかいと酸いも甘いも存じませんという無垢を孕んで。ぞっとした。間違いなく水原未紗季にしかできない、この以外誰も似合わぬ芸当だった。

「わからないって思ってるんだ」

「いやー、ええっと」

 案の定、大渕の反応はありふれている。クラスもとい学年の姫と女王を前に下心丸出しのくせ、いざ踏み込まれると途端逃げ腰になる。

「宮ちゃん。私、あとでB組に用があるから。代わりにそれ返しに行ってあげるよ」

「マジ? ミサミサやっさし~」

「あ、あの~、水原さん?」

いやなの?」

「はい?」


「行ったら──厭?」


 変わらず、瞳を占めるのはからかいと無垢の片割れ同士。陽の中にも陰があり、陰の中にも陽がある。だから、読めない。馬鹿正直にどきりとしていいものか、罪悪を感じるべきなのかがわからない。

「イヤって言うか、ほら水原さんにご足労かけるなんて──あー、とにかく俺が取りにくる。うん、取りにきちゃう。俺、ヒマだから」

 姫の戯れにいたたまれなくなったのか。挙句、大渕は多分柄にもないダブルサムズアップまで披露して、そそくさと教室を出て行った。その背中を哀れっぽい目で見送った朱羽が、未紗季に向かって眉を捻じる。

「悪女過ぎん?」

「もうちょっと可愛い言い方してよ」

「じゃあ、小悪魔」

「小悪魔かぁ」

 未紗季が、明後日の方向に視線を投げる。昔遊んだビー玉転がしの迷路みたく頭を揺すって。まあ及第点かな──と微笑んだ。十人中十人が天使と認める完成度だった。


 つかさの"外向性"は、朱羽の模倣だった。


 ジョークの瞬発力とか、物怖じしないところとか。とどのつまり、二番煎じ。天然モノである朱羽には敵わない。彼女の前では、男女の垣根はおろか、先輩後輩の上下関係とて意味をなしていないように見えた。あちこち着崩しているくせ、何故だか教師受けまで良かった(実際、担任の松岡は特段朱羽に甘かった。彼女の"発育"が中学生離れしていたせいかもしれない)。

 加えて──走る・跳ぶ・投げる。


 運動の基礎能力が群を抜いていた。

 

 中一の頃の体力テスト、まだお互いが「宮ちゃん」と「つかさ」で呼び合うような仲ではなく、つかさが人づてに聞いた"伝説"でしか宮本朱羽を知らなかった頃。

 五〇メートル走を並んで走ることになった。

 曰く、スポーツ万能という言葉では到底片付けられない埒外の怪物。

 確かにアキレス腱の大きな健脚だが──正直、負ける気はしなかった。

 結局のところ、スポーツというのは経験値がものを言う。足の正しい着地点、足の正しい回転位置、腕の正しい振り方──それらを無意識に再現できるレベルで、躰が憶えているかどうか。十分なデータベースを構築できているかどうか。

 まして、この場で問われるのは一歩の長さストライドと足の回転数が生み出す成果だけ。

 小学生のときから陸上クラブに所属していた自分と、クラウチングスタートのやり方さえ見よう見まねのこの娘では──。

 

 勝負にならない。


 先生がスタート合図用のフラッグを構えて、隣のレーンから「あー、蹴るんじゃなくて踏む感じか」と独り言が聞こえたとき、寒気がした。つかさの直感がと告げた。


 結果、勝負にならなかった。


 やっぱ陸上部まぢはえーとからから言ってのける朱羽をつかさは直視できなかった。

 敵はいつだって過去の"自分"。

 昨日の"自分"よりいい成果を出したいという欲求をただ満たせるよう努めるだけ。

 誓って──逃げたわけではない。


 つかさの"協調性"は、未紗季の模倣だった。


 こちらもまた、天然モノである彼女には歯が立たなかった。他人ひとの喜ぶツボを的確に押さえ、困っている信号をすぐさまキャッチする。それでも、決して都合の良い人にはならない。損な役回りには立たない。

 互助関係を築くことに長けていた。一人では往復必至の配布物にうんざりしている最中、面識のない男の先輩から「水原さんの友だちだよね? 手伝うよ」とやたら爽やかに言われたときは、流石に耳を疑った。

 つかさにとって二人は親友であり、模倣するべきオリジナルであり、そんな彼女らに挟まれている時間は楽しくて、誇らしくて、少しだけ窮屈だった。


「私──絶対前世男だったと思う」

 机にしなだれたつかさのぼやきに、未紗季が目をぱちくりさせた。

今世こんせは女の子だよ?」

「知ってるよ⁉ いや、何ていうかさ、どうしたら──もっと色々気付けるのかなって」


 ──未紗季みたいに。


 知らず、鬱々とした声色になっていたので。

「いやー、やっぱ前頭葉を鍛える脳トレとかしなくちゃダメなのかなー」

 前頭葉が何をしている部位なのかさえ知らないくせ、これは悩みではないと。聴くに値しないのだと、誰より自分に偽装する。

 なのに。


「私は、つかさちゃんと一緒にいるだけで楽しいよ?」


 即答だった。ある意味求めていた答えだった。

 こんなにも、あっさりと。真意を汲み取り、最適解を出してしまう貴女が。

 ちょっとした自慢で、ちょっとだけ怖くて、

「──うん、私も」

 大好きだったよ。


 やっぱり──トラックに比べると廊下は硬い。接地の衝撃に耐えるべく、足の筋肉を余分に動員させなければならない。そういえば、隣のレーンにもう貴女はいないのだけれど。

 謝らなければいけないことがあった。

 中一の体力テスト、朱羽の背中に見惚れるほかなかったあの日、噂に聞いた"伝説"は本当だったのだと思い知らされたあの日。

 つかさは、手を抜いたのだ。


 全力を出したところで、この娘には勝てない。


 二次加速へと繋いだ瞬間、それがデータベースの弾き出した結論だった。

 だから、一歩の長さストライドを狭めた。回転数を落とした。全力で走って砕け散ったのでは、あまりにも惨めだから。素人に花を持たせてあげたことにしよう。周りから白い目で見られたっていい。だって、相手はあの宮本朱羽だ。あなたたちだって、同じことをするでしょう。自分のこれまでを否定されたくないから。


 だから──恥ずかしくて、貴女を直視できなかった。


 ほんとうにごめんなさい。

 やっぱ陸上部まぢはえー。

 そーだよ。まぢはえーんだから。

 回転数を上げる。頭にある理想のフォームと現実のそれがマッチする。

 もう一段階、いまより澄んだところへ。


 これが、日野つかさの全戦力だ。


「どう? 俺と水原。脈アリそう?」

 机一個分の距離を挟んで。そう訊いてくる長瀬に、つかさは目を合わせられないでいる。デオドラントスプレー。わざとらしいミントの匂いも彼から香るものだと思えば、何故だかちっとも厭ではなかった。

「わっかんない。っていうかさ」

「うん」

「未紗季の──どういうところがいいなって思うの」

「あー、水原ってメッチャ聴き上手だろ? 頷いてほしいタイミングで頷いてくれるし、割って入ってくんなよってときは絶対割って入ってこないし、ウケてほしいところで笑ってくれる。けど、ふとああこれ俺のこと見てないわ──って思うときがあるんだよな。女子と二人でいるときとか偶にあるんだよ。あー俺いま品定めされてんだろうなーって感じちゃうとき。あれともまた違うっていうか、ホント眼中にない感じ。そこがミステリアスっつーか」


 何考えてんのか知りたいなぁ──って。


 なんで。

 かわいいとか、やさしいとか、守ってあげたくなるとか。


 そういう──浅い理由じゃあないんだよ。


「めっちゃ──語るじゃん」

「うっせぇ。まあ、ダメだったら来年またチャレンジする」

「しつこいの嫌われるよ」

 自分でもわかる声の刺々しさが厭になる。

 長瀬が、不服そうに目を細めた。

「女子ってそういうところあるよな」

 それが、日野ってそういうところあるよな──だったら、どんなに嬉しかったことか。

「日野に未来の水原の気持ちなんてわからないだろ?」


 いつの間にか、鬼ごっこをしていた。

 未紗季と二人、記憶のどこにもない、深い森の中にいて。二人とも小学校低学年くらいの背丈に戻っていた。不思議だった。自分と未紗季が知り合ったのは、中学に入ってからだというのに。そこには、競争も自己ベストもなかった。つかさも未紗季もただ楽しくて、走り回っているだけだった。お互いが一瞬、追いかける相手より速ければ、追いかけてくる相手より速ければ、それでよかった。


 未紗季の背中に、両手でタッチする。


 強く、押し過ぎてしまったかもしれない。

 フィニッシュラインを駆ける。テープが揺らいで、風に大きく舞い上がって。

 見えているのは、四角く切り取られた水色の空。長瀬と二人、同じ方を向いて、机一個分の距離を隔てて座っている。もしかしたら、誰かが盗み聞きしているかもしれない。

 それでも。


 ──まあ、ダメだったら来年またチャレンジする。


 来年があるなら、いい。昨日の自分よりいい成果を出したいという欲求をただ満たせるよう努めるだけ。リップをさっと塗った。勇気をもらえた気がした。もう一段階、いまより澄んだところへ。

「長瀬、私さ──」

 誰かが、ストップウォッチを押した。

                ※

 未紗季はうつ伏せに倒れたまま、貌の下面に取り込まれてゆく親友を見ていた。

 背中を押されて、転んだと同時に聞こえたのは、ぐしゃりとしか形容しようがない音で──。あんなに大きな口があるのに、使わないのか。というより、捕食しないわけではないのか。食べるのはあくまで攻撃手段の一つ。そういうことなのか。近づいて来るそれを見ながら、どっちだろうなと思う。叩き殺されるのか。取り込まれるのか。

 窓の外に目をやった。よなぁ、落っこちたって一階だものなぁ。

 空には、青い風船が佇んでいる。

「たすけてよ」

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