06『Prey』

 巨大なかおだった。

 人の十倍の背丈を誇る巨人がいるとすれば、その頭部があれほどの大きさになるのだろうか。耳まで裂けた口には幼児の頭蓋大の歯がいびつに並び、頭髪のようにしなだれた触手が面相を隠して蠢いている。

 壁面を這い下りはじめた。

 下面を蛞蝓ナメクジよろしく波打たせ、銀の軌跡を残しつつ、横一列に下りる様はさながら肉色の水簾すいれん。枝分かれした"流れ"が窓ガラスをめりめりと破る。蛞蝓がキャベツの葉を喰らうに似ていた。二階へ、三階へ。穴という穴から雪崩れ込んでゆく。

 叫喚が届いた。怒号が届いた。

 今のところはまだ生きている。

 貌が地面に達した。触手が、ぞるりぞるりと鎌首をもたげる。盲目の人が誰かの顔を触りながら、何とかその通りに頭の中でつくり上げたみたいな貌だった。制御の行き届いていない視覚イメージ。爬虫類めいた双眸が──。


 未紗季を、捉えた。


 ぐいと肩が外れるほどの力で、腕を引っ張られる。よろめいて、自分の前腕を両手で掴んだつかさと目が合った。。動転した目で、それでも真っすぐにこちらを見ている。ああ──もう互いの目くらいしか、まともに見られるものがないから、こうして見つめ合う他ないのかと。つかの間、未紗季は思って。

 駆け出した。


 二人して、手を繋いで。


 反対側──まだ侵されていないであろう棟に逃げ込んで。

 踏み入れた一歩が、"何か"にヒビを入れたとき。

 未紗季は、多分はじめて親友の心からの悲鳴を聞いた。これで一面が血の海なら、天井までしとどに濡れて、組織やら粘液やらが飛び散っていたら。

 未紗季も一緒になって叫ぶことができただろうか。


 人から鉱物が生えていた。


 生徒と教師──直立している者から着席している者、転がった拍子分裂した者まで。躰のそこかしこからミッドナイトブルーの結晶が生えている。ずぼらな神様が人間を創る過程で土が足りないことに気づいて、足りない部分を何とか"それ"で誤魔化したみたいだった。頭部のあるべき位置に四角柱が、手足のあるべき位置に金平糖状の塊が。鼻先が、指先が、足先が。どちらを向いているのかわからない人型が、ひとつのに収まっている。それはさながらキュビスムであり、ダ・ヴィンチへのアンチテーゼであり、時代ごと琥珀に閉ざされた決して目を覚ますことのない虫けらだった。


 これは、もうこの世の出来事ではない。


 いつ──のだろう。

 自分とつかさが喋っているとき、それらしい物音ひとつなかったというのに。


 恐る恐るどけた足の下には、ただヒビ割れた親指大の結晶がある。


 手を痛いくらい握り締められる。

 つかさは未紗季の方を見てはいなかった。顔色が──青い。リップを塗った唇が戦慄わなないている。甘夏の匂いは、もうわからない。

 未紗季は彼女の正面に立った。少しでも現実から距離を取れるように、向き合わなくて済むように。もう、それ以上は。


 力なく、抱き寄せることしかできなくて──。


「どこか──隠れよっか」

 そう耳打ちしたとき。

 視界の端──蹂躙じゅうりんされている棟の三階。窓から、誰かが飛んだ。男子生徒。自殺か、逃走か。両足から地面に落ちて、衝撃で足がねじれて。知っている人かもしれないな──と未紗季は思った。以前に風船を渡したことのある人かもしれない。貌が一体近づいて、悶える彼の頭に触手を振り下ろした。一撃。上体が跳ねて、それきり。校舎が、机や椅子を吐き出している。三階から女子生徒が飛んだ。頭が下を向いていた。一人、またひとりと。動かなくなってしまった生徒たちに、しかし貌たちは目もくれない。群がらない。


 ──と未紗季は思う。


 これは、捕食ではない。空腹が満たされたら終わるとか、そういう類ではないのか。

 どうして──こんな。 


 ──どうして?


 頭蓋の裏あたりから響いた心地がしたので。肩越しに、振り向く。


 黒いモッズコートを纏った少女がいた。


 なぜか顔の比較ができない。目も鼻も口も当たり前についているのに、あの娘より睫毛が長いとか、唇が薄いとか、見えてはいるのに比較ができない。それでも──。わかるよ。自分と同じくらいの背格好をした、高い襟に顎をうずめた女の子がいるということ以外。


 ──未紗季がそれを言っちゃうのはダメでしょ。


 貴女は──"彼女"でしょう。

 この世の終わりみたいな空の下、自然風景の最後に加えられた一刷毛はけ。絵具とは、実質的に色を召した接着剤だ。つまるところ、絵具の役割とは液体から固体に変わってその場にいつまでも留まり続けることだ。貴女は、水原未紗季の中から消えない。


 足許に朱が注がれる。


 出どころは、下界を睥睨へいげいするガーゴイル。ミラノ大聖堂、聖ヴィート大聖堂、シュテファン大聖堂。異様が十色である一方、排出の勢いもまた十色で。細く垂れ流すもの、未紗季のスカートにまで飛沫を散らすもの、今わの際に見せる呼吸のように不規則なもの。これは──血液? クローバーが浮いている。生気のない白百合が漂い、ステンドグラスの小片がさざめく。朱は、未紗季と少女の足首を浸している。ばしゃりばしゃりと少女が近づく。沈んでいた爪や歯が暴かれる。犠牲獣の頭蓋が露わになる。崩れ果てた鳩の屍体が、未紗季の脚に当たってくるりと回る。おぞましい。少女の黒いブーツが未紗季の足を踏んだ。痛みはない。ただ、逃しはしないという悪意を感じる。息が乱れる。肺が焼ける。ああ、何よりおぞましいのは。頭上から、ごぼりとこみあげる音。

 赤い祝福が降り注いだ。

 父と子と聖霊の御名によって。

 水原未紗季は、を知っている。


 ──そうだよ。だって、いまも未紗季はそこにいるもの。

 

 叫んだ。

 つかさを突き飛ばして、尻もちをついた彼女と目が合って、あのおぞましい光景がどこにもないと知って──。

 視線を切った。当てもなく走り出した。何から逃げているのかさえわからなかった。あの貌から、あの少女から、あるいは死から。昏々としたものが追い縋ってくる。とにかく肺を、全身を痛めつけなければ。意識を──保っていられなかった。

 ふと顔を上げれば。

 空には、見渡す限りの風船が浮かんでいる。

                  

 幼い頃、家族で行った遊園地。兄妹そろって色違いの風船をもらった。帰り道、自分の風船だけが何かの拍子に割れてしまって。失ったことより、風船が割れた音にびっくりして泣いてしまった自分に、兄は少し躊躇ためらってから青色のそれを差し出してくれた。

 ──俺は、要らないからさ。

 両親が温かく見守る中、ごめんねお兄ちゃん──と。それを受け取って、涙ながらに笑顔をつくった未紗季の胸中は。

 どうにも、ざわついて仕方がなかった。


 兄の厚意に甘える妹という構図が、まるでしっくりきていなかった。


「お兄ちゃんって、私がグチってると楽しそうだよね」

 グラスの中の氷が、あの日の風鈴みたいな音を立てる。

「楽しいっていうか──」

 兄が言葉を切った。照れくさそうな含み笑いはそのままに、アイスベトナムコーヒーを一口。唇の端──ストローの咥え方が随分遠慮がちなのは、つい先ほど一口飲ませてと自分が味見をしたから。回し飲みを意識しているからにほかならない。

「微笑ましいとは思ってるよ」


 微笑ましい。


 そう、喜ばしいに決まっている。妹の些細な捌け口として選ばれたこと、常日頃頼れる兄であろうともがく貴方が誇らしく思わないでいられるはずがない。大丈夫、水原未紗季は水原透を解っている。いま何色の風船がほしいのか。何色の風船を返して、良き兄であることを示したいのか。妹の唾液をごく僅かとはいえ消化する、一片ひとひらの罪悪を見抜いている。

 テーブルの下、キーホルダーをように握り締めて。


「だって、俺は十六で未紗季は十四だろ。いつまでグチってくれるかわからないじゃないか」

 

 嘘のように、指がほどけていった。ああ

「そーだね」

 この人の未来に自分がいない。

 立ちはだかればよかった。高くそびえずとも、貴方の歩みを妨げる泥濘があればよかった。貴方を三度倒す十字架があればよかった。祈りを捧げる。願うのではなく、ありのままの心を神に差し出す。醜くともあるがままを、どうか。


 兄が、秋口から不登校になった。


 かみさま。

 これほどに、捧げるだけ捧げてあげたいと想える人は初めてだった。何より助けを乞うことを心から恥じている、死にたいほどに申し訳ないと思っているところが、いい。せめて妹の前では、頼もしい兄でありたい。そんなプライドに日々苛まれながら、唯一の理解者である妹からの甘言ほしさに、結局縋ってしまう。


 こんなことになるなら、告白でもしておけば良かった。


 もし、兄が自棄になってそういう流れになったとしても、あの人が相手なら良かった。むしろ、誘いを断り切れなくて、手を出して、塞ぎ込んで、いよいよ居場所をなくしたあの人を心ゆくまで慰めてみたかった。未だ見ぬ底を見てみたかった。

 そう、叶うのならもう一度見たかったのは。

 伸ばした手の先に、待っていてほしいのは。


 俺は、要らないからさ。


 ──何で?

 幼い兄の顔と青い風船に向かって、手が伸びる。背をいていた暗がりが泣き止む。手繰り寄せた風船は、見る見るうちに萎んでいって──。

 走るのを止めた。

 熱をもった手足が思い出したように痺れてきて。

 未紗季はまだ、風船の行く末に気を取られていたものだから。

 速さを緩めた階段の前──渡り廊下から迫る貌の気配に気付かなかった。

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