05『Girl with Balloon』

 校舎は、ロの字型のコンクリート三階建てである。

 未紗季は、各棟に囲まれた中庭のベンチに一人腰掛けていた。今は一時間目──美術の授業の最中さなかである。彼女はスケッチブックのまっさらなページを膝許ひざもとに広げたまま、されど傍らのペンケースから鉛筆を出す素振りさえ見せず、スカートのベルトループにつないだキーホルダーを弄んでいた。

 ステンレススチールのドッグタグ。

 女子中学生が愛用するには無骨なデザインだったが、それが返ってあの人と同じものを身につけているのだという実感を高めてくれるようで。


 つまるところ、気分が良かった。


 雲間から──天使の梯子。

 どうせ、だけ。一度ひとたび目を離せば、刹那無に帰すものだ。ペンケースまで指を歩かせて、これを風景画とするのは流石に悪目立ちすると悔い改める。不完全なものとして造られた人間が自らの力で完全なものとなり得たとき、迎えられる地がそこだという。あの栄光をのぼった先には。


 ──死んだあともずうっとここにとどまっているしかなかったりしてな。


「本当に──どうなるんだろうね」

 期待していた"何か"が失せたときには。


 しるしなく、もう三十秒も持たないような空だった。


 幾度目かの儚い溜息をもらす。

 別に──屋外スケッチに気乗りがしないというわけではない。むしろ、自分はそれが好きな方だし、得意な部類にだって入る。ただ、今日はどうもそれどころではなかった。


 ──お兄ちゃん。


 一時間目の前、電話越しに透と交わしたやりとりを思い返す。

 ──俺を頼ってくれよな。その、できるだけ相談とか乗るよ。

 ああ、そう言ったとき、兄は。

 一体、どんな顔をしていたのだろう。心の中で歯噛みしていただろうか。学校にも行けないくせ頼ってくれだなどと、自らを笑い呪い辱めただろうか。そのあと、そう、そのあと──妹からのありがとうに、耳心地の良いできた言葉に、そっと胸を撫で下ろしただろうか。削れるだけ削った自尊心を口惜しい元通りに修復できただろうか。あの兄のこと、今頃はまだ反省会をしているかもしれない。どこかの雑踏で、あそこは兄として適切だったとか、不適切だったとか。些細な──あまりにも些細な兄と妹二人きりの意思疎通を思い返して、用意した解答とにらめっこしながら、採点に励み、自分を吊し上げている頃合いだろうか。


 透は、絶対に妹である自分を突き放したりしない。


 人一倍優しくて、ユーモアがあって、ときどき不器用で、ちょっとだけ直情的──そんな「何とか頼れる兄であろうともがく水原透」を見せたがっている。懸命に、演じたがっている。


 ──せめて、だいじなだいじな未紗季の前だけでも。


 甘く、身震いする。

 やはり──格別だと思う。すごく心地がいい。

 キーホルダーをきつくきつく握り締めたとき、隣に人が座った。

「大丈夫?」

「何が?」

 指を、するりとほどく。

「何って、ボーっとしてるから」

 クラスメイトの日野ひのつかさがちょっと困ったように笑った。

 未紗季とつかさは、中学一年生の頃から同じクラスである。休日一緒に出かけることもあれば、お互いの家に遊びに行くこともある間柄だ。基本敵はつくらないが、特別仲が良い子もつくらない、誰にでも分け隔てなく──をモットーにしている未紗季にとって、その実異例の存在である。

 そこまで気を許しているのは、きっとつかさの根が真面目過ぎるからだ。


 自分が、かよわい水原未紗季のボディガードになってあげないと。


 だから。

 これはお節介だろうなぁと、内心自覚が行き届いているだろうこともあえて口にする。なめられない、強い日野つかさでありたいから。別に"要人"から頼まれたわけでもないのに。そういうところがどこか兄である透を彷彿とさせて、つき合っていると結構楽しい。


「もしかして、朝のこと気にしてる?」


 すがめたつかさが、少し言いづらそうにそう訊いてきた。

 朝のこと──多分、古文の宿題をみせてほしいと頼んできた氷上ひかみという男子とそれをいいよと快諾した自分の間に、割って入ったこと。

 つかさは宿題は自分の力でやれだとか、そういう至極真っ当な主張はせず、とにかく他の人を頼れと、未紗季にだけは近づくなと、そう意固地に言い張って、氷上を追い返してしまった。

 未紗季の言い分には、一切耳を傾けようとしないまま。

「氷上君のことなら、全然気にしてないよ」

「アイツ、絶対未紗季目当てで声かけたんだよ? いつもなら他の男子の写してるし──」

 膝許に置いたスケッチブック、その上に両肘を乗せて、頬杖をついて──ぼやくつかさを後目しりめに、苦笑いをしつつ──申し訳ないことをしたなぁと未紗季は思った。


 よければ写さないかと氷上に声を掛けたのは、他ならぬ自分だったのだから。


 あっと声を上げて、つかさがこちらに顔を寄せてきた。

 陸上部──部活焼けした彼女の肌は、なんだか日向ひなたの匂いがする。幽かにぎる甘夏の香りは、きっとおそろいで買ったリップクリームのそれ。

「そういえば長瀬ながせだよ長瀬! 昨日コクられたんでしょ? 呼び出されてヘーキだった? 何かえっちなこととかされてない?」

「えっちなって──されてませんっ。というか、長瀬君はそんな人じゃありません。あと、付き合うかどうかは、ちゃんとハッキリ断ったから」

 バスケ部の長瀬。

 この人なら自分なんかよりずっといい相手ひとがいるだろうに、彼女には決して困らないだろうに。世辞抜きで、そう断言できるくらいには。女子の間でそういう話に花が咲いたとき、うち一人は必ず名前を挙げるような。そんな好青年だった。校舎裏に未紗季を呼び出したときも、こんなところに呼び出してゴメン怖いよなと気を遣ってくれて──。

「へっ、へー」

 上ずるつかさの声。


「断れ──たんだぁ」


 断ったのではなく断れたことを拾われているあたり、彼女の中でやはり自分はそういう位置づけなのだなぁと未紗季は思う。同時に──伏せられてしまったつかさの顔。まあ見せたくはないだろうなぁとも思う。


 そう、断った。


 付き合うとか、手を繋ぐとか、肌と肌を触れ合わせるとか、まして心と心を通わせるとか、そういう気持ちにはなれなかったから。

 長瀬は、引き際も誠実だった。

 俺はこれからも水原のこと友だちとして好きだから、仲良くしたいと想ってるから、困ったことがあったらいつでも頼ってくれよなと、腰に手を当てて中学生のわりに広い肩幅を強調しながら、丈夫そうな歯並びとともに笑ってくれた。

 未紗季は、本当にごめんなさいと頭を下げる、心の隅っこで。ほの昏いどこかで。


 と。


 だって、あなたの場合は。本当に頼りになってしまうじゃないか。

 その点、あの人は。

 ──その、できるだけ相談とか乗るよ。

 できるだけ。だって。

 未紗季が求める理想に、どこまでも沿ってくれている。


 未紗季にとって、親切とは。他者への思いやりとは。無償で分け与える幸福とは。

 遊園地のマスコットキャラクターが入場者に配る風船みたいなものだ。現状そのストックが底を尽きる兆しはなく、望まれるなら望まれるだけ、差し出すことだっていとわない。


 ただ──風船以上のモノを差し出すつもりはなかった。


 マスコットキャラクターだって頼まれたところで応じられるのは、せいぜいツーショットとか、握手やハグくらいのもので。着ぐるみを脱げと言われて脱いだりはしない。

 だから、長瀬の告白を断ることには欠片の躊躇もなかった(もちろん躊躇している演技はしたが)。彼がほしいと求めた色の風船は、元より持ち合わせていなかったので。

 つかさは、つかの間しゃんと背筋せすじを伸ばして、すぐに丸めてしまった。どこかバツが悪そうな顔で、上目遣いに未紗季を見た。


「未紗季って、もしかして好きな人とかいる?」


 ──すきなひと?

 咄嗟に、頬を赤らめるくらいの芸ができればよかったのだが。

 フリーズした未紗季を前に、慌てたつかさが顔の前でオーバーに手を振った。

「いや、ほら。長瀬って──ウチの! ウチのクラスの男子ン中じゃあそこそこイイ感じだからね? そこそこ! だから──」

 もうそういう人とかいるのかなって──と、すぼんでゆくつかさの声。

「つかさちゃんって本当に──」

「うん?」

「ううん、何でもない」

 気になる人はいるかもねーとほのめかすに留める。


 危うく、本当に長瀬君のこと好きなんだねと言うところだった。


 この場合、最も避けたいのは自分がつかさに気を遣って長瀬を振ったと誤解されることである。今ここで、つかさの片想いに気づいていたと明かせば、十中八九そのような誤解が生じ得る。挙句尾ひれがついて、それが長瀬の耳に入れば(その手の噂を真に受ける人ではないだろうが)自分はつかさのせいで振られたのではないかという発想に至らなくもない。


 だから、素知らぬふうを装う。


「気になる人──」

 すすすっとつかさが幅を詰めてくる。

「言っとくけど恋バナはしませんから。というか授業中」

「知ってっしー。けど、気になる人がいるんなら早いとこ言っちゃった方がいいと思うよ」

 つかさが、そっぽを向いた。


「告白してないのにフラれることだってあるわけだからさー」

 

 未紗季は、一瞬だけつかさの肩にもたれかかろうかなと思って──。

 うんそうだねとむに留めた。

 

 ──もうそういう人とかいるのかなって。


 未紗季は、夢想する。

 大切な妹に、たった一人の理解者である妹に告白されて、狼狽うろたえる兄の顔を。何言ってるんだ俺と未紗季は兄妹で──そこまで言って、彼は言葉を詰まらせる。目を泳がせる。自分の潤んだ眼差しに射抜かれて。学校にも行けなくて、両親ともいがみ合ってばかりで、不登校になってからもやさしく接してくれる唯一のクラスメイトに劣等感を覚えて、どこにも居場所なんてない中、最後の拠り所だった妹を邪険にできなくて。もし、自分が今以上の繋がりを迫ったら、あの人はどうのだろう。手と手を繋ぎ、肌と肌を触れ合わせることを切に望んだら──挙句泣き出してしまうのではないか。

 ああ、紅潮している。緩む口許を両手で隠す。

 もう、ありったけの風船を渡せるだけ渡してしまいたい。


 ふけっているだけで、虜になる。


 異性として魅力的だと思っているわけではない。ただ、自分のあり方にどうしようもなく合致する存在が──あの人以外考えられない。ありえないというだけの話だ。

 頭ひとつ、未紗季の肩に重みが乗っかる。

「イチャイチャもしませんよー。授業中なので」

「え~、なんてドライな~」

 猫みたく頭をこすりつけてくるつかさに笑みをこぼして。ふと、空に視線を投じた。

 今日どっか美味しいものでも食べに行こっか。

 提案しようとした、そのときだった。

 

 向かいの棟──屋上に横一列、"何か"が並んでいる。


 生々しい、淡紅色に目をみはって──。

 知らない。

 あんな動物は、あんな生き物は見たことがない。

 というより、居てはいけない。

 だって、だって。

 幼気いたいけで、悩ましく、辛辣なあの声が告げる。

 いぬだ、いぬがくるよ。

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