水原 未紗季

04『Hebraios』

 水原未紗季が初めて都内にある教会を訪れたのは、小学六年生の夏休みのことだった。

 目的は社会見学とちょっとした背伸び、それから日常の外にも居場所はあるのだという安心感の醸成じょうせい

 きっかけは、小学三年生の頃そういえば老人ホームで合唱会をしたなぁ──とふいに思い出したこと。介護職員の一人がシスターであると知って、何もシスターとは修道院で働くばかりではないのだと驚かされた。よかったら一度あそびに来ない。

 あの日交わした口約束を三年越しに果たしにゆく。


 聖堂の中は、地元の信徒であふれていた。


 未紗季が迷子の子猫みたくおっかなびっくりしていると、白いベール姿の老女から声をかけられた。あら、どこから来てくれたの。見ない顔が珍しいというより、若い子が珍しいのだろう。誘われるまま、堂内の中ほどに腰掛けた。ミサのリーフレットと聖歌集を手渡される。祈り込まれた彼女の手は、されど朝摘みの花びらみたくつやつやしていた。

 聖歌が捧げられる。

 ステンドグラスから射す光が、白いベールに降り注いでいる。色とりどりの祝福だった。時を超えるような眩暈めまいの中、ここは静謐なる宇宙だった。だとしたら、未紗季は無窮むきゅうを漂う灰塵かいじんである。大きさたった数ミリ、地球の小石よりずっとかよわい、ひょいと大気に身を投じれば夜を切り裂く星くずである。


 平穏な休息に帰った。


 二度目に足を運んだのは夏休みの終わり、蒸し暑い夕暮れのことだった。

 目的は、宇宙が眠りにつくところを見てみたいという好奇心の充足。

 聖堂に入ってすぐ、最前列の左端──ショートカットの後ろ姿を認めた。自分より三つか四つ年上の女の子。澄んだグレーの髪が斜陽を纏って、オリーブの銀葉みたく輝いてみえる。彼女以外参列者の姿は──。


 そっと、両目をこすった。


 明から暗へ順応するプロセスが見せた幻だろうか。一瞬、彼女の傍らに立ついやにがっしりとした後ろ影が見えた。さながらディストピアを警邏けいらする機械兵士のような。それほどに非現実的だったからこそ、人差し指が眦を離れ、再び前を見据える頃、それは跡形もなく失せて然るべき影法師だった。

 にもかかわらず。

「え?」

 

 見渡す限りの野原にいる。


 空は、この世の終わりみたいな色をしている。

 目の前に、白いフーデットコートを纏った少女がひとり。

 顔は見えているのに、識別ができない。見覚えがあるのかないのか、満遍なく吸収して一応の判断を下すところまで咀嚼ができない。自然風景の最後に一刷毛はけ加えた絵具みたく、その存在は異彩を極めている。

 未紗季に向けて、フリスビーが差し出された。ずきずきするような黄昏色だった。

 ──犬と遊ぶのは好き?

 わからない。

 水原家では犬も猫も飼ったことがない。

 ただ、どうやら未紗季はそれを受け取ろうとしているらしい。

 ──ああ、そうそう。

 すんでのところで、フリスビーが引っ込んだ。だいじなことをききわすれてた。


「おにいちゃんは、いぬとねこのどっちがすき?」 


 リビングには、ディフォルメされた犬と猫をかたどったクッキーをそれぞれ持ち、そう──兄に尋ねる未紗季がいる。

 ようやっと、立ち尽くしていることに気づいた。

 座ろう。

 なんだか疲れてしまったので、兄の答えを待たずして長椅子を目指した。

 柔らかく光る、慣れたフローリングをしずしずと歩いた。

 

 目に映るうなじは──白い。


 最前列の右端に座った。横目でひそと窺う。

 白いステッチの入った黒いベルテッドワンピース。八月だというのに長袖である。僅かに覗く手首は、それこそ食べるにふさわしい食事コーシャフードしか取っていないのではないかと懸念するほどに細い。

 ステンドグラスの織りなす光が、未紗季と彼女の隔たりを彩っている。


 リュックにつけていたキューピーのキーホルダーがちりんと鳴った(しかし、未紗季の記憶が確かならそれは"鳴る"ような代物ではなかった)。


「キューピッドと天使ってどう違うんでしょう?」

 沈黙に突き動かされたわけではない。ただ、彼女の声を聴いてみたいと思った。だから二言三言では終わらぬ、それこそ頭の中巡り巡っていた星くずを繋いで、何とか起こした彗星だった。

 彼女が、未紗季に一瞥をくれる。

 瞳が、あまりに冷めて映ったものだから──未紗季は一瞬、神がいるならなぜ悪はあるのかとかもっと手強いことを訊いた方が良かったかと身を固くする。

 彼女は前を向いたまま、口を開いた。


「天使はユダヤ、キリスト教における神の使いで、キューピッドは異教の愛の神。だから、基本的には異なるものなのだけれど──有翼ゆうよくの幼児か少年だという符号は一致している。そう考えると、“天使”は教義の枠にとらわれない、キリスト教とそれ以外──そういう線引きすら飛び越えてしまうような、くつろいだ存在なのかもしれないね」


 驚くほど抑揚のない語りだった。

 未紗季の年齢や予備知識に些かの配慮もなかったが、水を差す気にはなれなかった。

 詩をそらんじているようで素敵だったから。

 いま口を開けば、染み入る余韻をさらってしまうようだったから。


 メランコリックな横顔が、ゴシック教会堂の張り出しに腰掛けて、人の運命に思いを馳せる天使のようだったから。


 彼女の視線の行方を追う。

 斜陽が、キリストの磔刑像を浮き彫りにしている。

 天使は教義の枠にとらわれない。異教間の線引きを越えゆく存在。神様と違って、天使は自由でどこへだってゆけるのだ。洗礼を受けた人でなかろうと、信仰を持たぬ人であろうと、手を差し伸べたい人に差し伸べられるのだ。だとしたら──。


 ──ごめんねお兄ちゃん。


 未紗季は、きっともう自分はそれなのだと思った。

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