15『Solve et Coagula』

 直に一時間目の予鈴が鳴る。

 九割ほど人の入った教室では、生徒たちがそれぞれのグループでお喋りに興じたり、授業の予習に励んだりと、思い思いの時間を過ごしている。理杏の席は中央列の最後尾。前の席に──まだ、つむぎの姿はない。


 音の鳴る法則を探している。


 あれは、いずれも理杏の最適解を阻むタイミングで現れている。

                ※

 先週の日曜日、譲次郎とショッピングモールに出かけた。目的の映画を観終わって、理杏は今女子高生の間で話題になっているロールアイスが食べたい──つまりは世間一般的な女子高生としての最適解を出そうとして、たこ焼き屋に目を奪われた。理杏、お腹空いてない? ルームミラーには、ビーズアクセサリーが揺れている。遠く、エンジンが廻っている。

「食べたいのか?」

 訊かれて、足を止めていることに気付いた。そういうわけではない。なかったが──あらかじめ記述できていない場面に対しては、反応が遅れる。


「食べたい──のかも」


 譲次郎が吹き出すように笑った。

 それが、初めて目にする反応だったから、やはり理杏はフリーズする他なくて。悪い悪いじゃあ食べようと、譲次郎が慌てたように付け足す。もっと、かたい微笑しかできぬ人なのだと思っていた。

 もし、あの音がこれまで理杏が構築してきた早川理杏像を否定するのであれば。

 ──しょうがないなぁ。

 あのとき、何と言うつもりだったのだろう。母に向かって。理杏に代わって。


 


 帰り際、道端の暗がりに紛れて交わしたキス。唇をそっと重ねただけ、感情をすり合わせるようなそれではなかった。ただ、いつかの彼の言葉を借りるなら、焦りがあったのやもしれない。譲次郎には、何かが伝わったようで。

「──早川?」

「私は」

 言葉の端が震える。

 エンジンは鳴りを潜めている。けれど、口から零れ落ちたのは。


「ちょっとでも、前に進んでいないと私じゃないような気がして」


 一日たりとも浪費したくはない。今日も何かを積み上げねば、生きた心地がしない。この余白を隅から隅まで埋めなければ、もう明日が来ないような気がして──。

 譲次郎の手が、理杏の頭を撫でる。

「何か、早川が頭いい理由──わかった気がする」


 譲次郎とふたり、手をつないで歩いている。

 互いの手のひらをただひしと合わせただけ。恋人然としていないそれが返ってこそばゆくて──心拍はゆるやかに一定だった。

「前に言ったろ? 早川とはもっとゆっくりやっていきたいって」

「うん」

「たとえばの話──自分の身や大事な人を守りたいって思ったとき、最初に学ぶべきは喧嘩の勝ち方じゃなくて、危ないところに近づかないってことなんだ。まっ平らじゃない道のりをチャレンジ精神で進むのいいけど、危険だらけとわかっている道のりをわざわざ歩くことはないだろ? でさ、誰かと比べて焦ったり、近道しようとすると──人間、つい危ない道に入りやすくなる。ゆっくりっていうのはそういうことだよ。明日は今日よりもっと先へじゃなくて、偶には二三歩下がってもいいから」


 比嘉譲次郎は早川理杏と永くありたい。


 理杏は、歩みを止めた。譲次郎もそれに続いた。

 廻転は聞こえなかった。秋の夜空はからっぽで。ただ、鈴虫のがあった。


「私、比嘉君と付き合えて良かった」


 もはや──記述の途切れさえ定かではなかった。

「比嘉君はいい人だから」

 ただ、舞台に立つ早川理杏の台詞と振動のもたらす声帯の異音が、ほんの一瞬調和したような瞬間があった。

 譲次郎が、むず痒そうに笑みを引く。 

「俺だって、悪いことの一つや二つ考えるぞ?」

「たとえば?」

「そりゃあ──学校の資料室で彼女とキスしたこと自慢したいとか」

 言葉のはずれが、随分と淡い。

 理杏のきょとんとした顔に痛むところがあったのか、考えただけだ実行はしてないと譲次郎が早口に取り繕う。

 知ってる──と理杏は言った。口許が、知らず控えめな彼の笑みを模倣する。

「そんな人じゃないって、知ってるから」

                ※

 こめかみを押さえる。

 打ち明けなくていいのだろうか。つむぎに。面白い、面白くないではなく、そもそも早川理杏にはそういう価値判断ができないのだと。自分が、奥平つむぎの作品を心から面白いと評することは生涯あり得ないのだと。打ち明けなくていいのだろうか。譲次郎に。無害でさえあれば、相手はあなたでなくとも構わなかったのだと。口づけも抱擁も、経験値ほしさに過ぎなかったのだと。

 廻る。廻る。このエンジン音は。

 ああ、ようやっとヒットした。何かしら掴めはしないかと、ネットをさまよっていた折には気付かなかったが。つきあってあげるよ──と続けようとした、あのときから。スターターを引いた。


 ぶつりと。


 チェーンソーが飛び出す。理杏のうなじを裂いて。理杏は、それを傍らで見ている。咆哮するエンジン。せきを切る排気煙エグゾースト。疾走する鎖鋸が、血と肉片を躍らせる。刻んだ自らをあちこちに叩きつける。ぬるく赤が滴る天井の下、黒山羊の頭をした生徒たちが理杏を見ている。チェーンソーの脈動に合わせて、机を揺らす伏した躰を厳かに見ている。いつしか、眼前には見上げるほどの巨躯。老いた黒山羊の頭に骨張った人間の半裸。頭上には自らの尾をのみこむ蛇が廻っている。光輪ニンブス奈落トラップルームの仔山羊たちが心棒を廻す。あまねく、咲きたての──薔薇の匂いがする。


 戻ってきた。


 おずおずと確かめたうなじには生傷の一つもない。額は、薄っすらと汗をかいている。今のは──。予鈴が鳴った。肩が、びくりと跳ねた。未だつむぎはやって来ない。今日は病欠だろうか。深く、エンジンが歓声を上げる。積み上げたこれまでに揺さぶりをかける。

 理杏は、窓の外を見た。

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黒ノ都 姫乃 只紫 @murasakikohaku75

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