EXTRA『ガイアが俺にもっと輝けと囁いている』

 場外馬券場の近所にある喫茶店とは、どこもこうなのだろうか。

 飛び交う歓声と罵声。実況アナウンサーの絶叫を撒き散らす、テーブル上のポータブルテレビ。連呼される馬番と馬から落ちろとかいうあんまりなヤジに、気取けどられない程度の侮蔑を抱きつつ。天井付近、佇むばかりの紫煙を見上げながら、正親はばくとそんなことを考えている。


 どうもこれがこの店の日常風景らしい。


 カウンターの奥では、E.T.似のマスターがどこ吹く風と珈琲を淹れている。

 国木戸ファミリーとやらの一員になった当初、悪ぶった学生がこんなところにたむろして通報されやしないかと正親は内心危惧していたのだけれど──。この店にとって、自分たちはそれなりに飲み食いし、たまに下卑た笑いをこぼすだけのお行儀の良い常連らしい。

 向かいに座る国木戸は、随分ミルキーな色合いのメロンソーダを一心不乱に啜っている。浮かぶバニラアイスは、届くや否やガシガシとつつかれ、わざとっぽいメロン色の海に溶けてしまった。

 決まって注文しているが──。


 やはり、"緑"に惹かれるのだろうか。


 受けつけないヤニの臭い。キレたら何をしでかすかではなく、フラットなメンタルでも何をしでかすかわからない、狂信的エコロジストと一対一サシでいる緊張感。じわり苛まれ、頭の芯が煙っているのか。行けだの差せだの、画面越しのサラブレッドに送られる声援さえどこか遠く。いつしか半開きになっていた口唇から、まろんだ。


「先輩って、煙草の煙はイイんですか?」


 ポイ捨ては悪即斬とするくせに。

 言葉足らずだが伝わるだろうという確信と、ああ伝わってしまったという後悔。

 バキュームが止まった。気味悪く動いていた左右の黒瞳こくとうが、ズッと根づいた。

 脊柱に氷の棒が通る。


 丹田が──跳ね上がる。


「あっ! あの」

「正親チャン」

 至って平坦な呼名で、弁解と起立を制される。この男はいつもこうだ。ことグリーンな講演会を除き、決して語気を荒げることはない。

「煙草ってさぁ、一本で十四分寿命縮むんだよ。おまけに血管も縮む。ほそぉ~くなって、血の巡りが悪くなる。男にとってそれがどういうことかわかる?」

 国木戸が、自身の股ぐらを指差す。


「勃ちが悪くなるんだよ、勃ちが。すると、種が蒔けなくなる。巧いこと子孫繁栄できなくなる。俺はね、正親チャン。このままじゃあ人類はラクをはき違えたツケが回って、そのうち地球に住めなくなるって常々警告してっけどさぁ。本音言うと、人類なんて一人残らず死んじまった方がいいと思ってるんだよ」


 妙な──違和があった。

「地球って昔、二酸化炭素の方が多かったんだ。二酸化炭素が九十五パーセントで、窒素が五パーセント。ンで、二酸化炭素と水を原料に、太陽光をエネルギーに変えて生きものが生まれた。二酸化炭素が多い星だったから、これだけ命が生まれたんだ。今こうして二酸化炭素が増えてる現状は、前触れなんじゃないかと俺は見てる。今いる人類は絶滅して、新しい命が取って代わる兆しなんじゃないかってな」

 迸るアドレナリンがない。黒瞳が嬉々として弾まない。いつもなら、言葉の一つひとつに引きずられるようにして、躍り出る鬼気一切が鳴りを潜めている。

 否、潜めているどころか。


 無い。


「きっと、近いうち何かが起きるんだ。なにせ、地球が新しい生命を育むのにベストな環境──中生代の気候を取り戻そうと思ったら、今とおんなじペースで温室効果ガス出したって一万年かかんだぜ? 取って代わるには悠長過ぎる。だから──」

 実況アナウンサーの熱狂が最高潮に達する。歓声と罵声を好き勝手飛ばす客たちに、国木戸は目線を送った。蔑視ではなかった。むしろ。異なる次元から、愛おしいものを見るような目で。愛おしさは、そのまま正親に向けられた。


「俺ぁ煙草吸ってるヤツがいても止めないよ。吸って、吸って、吸いまくって、肺ドス黒くして、ガキの種枯らして、どいつもこいつもおっねばいい。これもきっと思し召しなんだ。俺たちに取って代わる新人類が現れる、兆しのひとつなんだ」


 誰かが上げた雄叫びは、されど壁の向こうから聞こえているようで。

 再起動した黒瞳が、てんでばらばらに時を刻む。

 ──気味が悪かった。

                ※

「禿げてンなぁ」

 手茶碗で到底受け止め切れなかった自らの臓物に伏すマスターのつむじを眺めながら、竜馬は独りごちた。マスターは小男だったが、それでも頭頂部をまじまじと見つめる機会などなかったので。

 口先に煙草を咥え、最初の一服をもったりと吸い込む。いつものたまり場、いつものテーブル席で、ついさっき死んだ男からくすねた煙草。ただ──。


 もうこの店のメロンクリームソーダは飲めないのだと思うと。


 少しばかり靄々もやもやした。

 両足をテーブルの上に寛げる。ユーカリの繊維を使ったスニーカーに血が跳ねている。足を箒代わりに、散らばるガラス片を物言わぬマスターの背中に落として。くつくつとこみ上げる笑い。合わせて、煙の断片がもれた。

「言ったろ。近いうち何かが起きるって」


 店の外には、新人類が闊歩している。


 相次ぐ異常気象によって、独自の進化を遂げたウイルスに感染。結果、武器に頼ることなく旧人類を肉塊に変える膂力と車に轢かれてなお立ち上がる耐久力、臓腑を露出した状態でも活動できる生命力を獲得した新たなる人類。


 竜馬の脳内では、すでにそういう設定になっている。


 喫茶店を強襲した新人類は、しかし竜馬に目もくれなかった。

 細かな挙動を見るに、認識こそしているようだったが──。見えていて、あえて度外視した。それはもう、自分が選ばれた側であるからに他ならない。ウイルスには、国木戸竜馬を標的とする指令が組み込まれていなかった。

 すなわち。


「これからは地球に優しいヤツだけが生き残るンだよ」


 国木戸竜馬は地球ガイアの申し子である。

 竜馬の脳内では──すでにそういう設定になっている。

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