早川 理杏

13『To Do』

 互いの息を奪い合うかのような口づけだった。

 舌を絡めながら、歯列をなぞりながら、下唇をみながら。薄く──瞼を開ける。躰を預けたそのときから、比嘉譲次郎ひがじょうじろうが意図して下腹部を浮かせていることに、早川理杏はやかわりあんは気づいていた。唇の動きはそのままに、人差し指をじわりじわりと迂回させつつ、ズボンのチャックに触れて──。

 譲次郎が、大きく腰を引いた。

 しゃっくりのような苦鳴。背後にあるステンレス製の本棚が揺れて、幸い──落ちてきたのは埃のみ。

 青黴あおかびのにおいが混じる、空気さえ寂れた資料室に二人、黙したまま見つめ合って。先に──目を逸らしたのは譲次郎の方。肩を掴まれ、やんわりと引き離される。

「それ──早くないか」

 嫌悪から拒まれたわけではないらしい。

「いや、早くはないっ。妥当だとも思うんだけど、初めては──俺の、部屋であるとか」

 早くないかという言い分をすぐさま撤回したのは、高校生のうちに目の前の異性と性交渉ができないのは惜しいと思ったから。断った理由としては、初めての交際相手と結ばれる場所として学校の資料室が不適切であると判じたから。

 それ以外で拒んだ理由はない。

 しかし。


「私の部屋ではだめなの?」


 俺の部屋──というのはどういう拘りなのだろう。

 譲次郎の短く上擦った声。たじろいで、ぶつかった本棚がいよいよ埃以外を落としてきそうだったので、理杏はそれ以上の追及を控えた。学習。今後ここを"利用"する際は、自分が本棚を背にすることにしよう。

「だめ──ではない。だめではないんだが、ただ──」

 拳を眉間に押し当てて、きつく瞼を閉ざす譲次郎をよそに理杏は思考する。

 成程、お互い無防備を晒すわけだから、急所を見せ合うわけだから、自身のテリトリーでそれをしたいと思うのは当たり前か。それに、交際相手の親と鉢合わせる事態も回避できる。

 だから──おかしくはないのか。

 譲次郎が手を握ってくる。両手で包み込みように。


「俺、早川とはもっとゆっくりやっていきたいんだ」


 厚みのある手だなと理杏は思った。

 平素、譲次郎から理杏に触れてくることはまずない。

 先ほどのキスにしても、結果としてここに連れ込み、抱きすくめてきたのは譲次郎だったが──。誘いをかけたのは、理杏の方だった。そこを知ってか知らずか、彼は──自分から引っ張っておきながら行為を頓挫したことで、男らしくないと思われているのではないか。彼女に恥をかかせたのではないかと。

 そんなふうに、気を揉んでいるのかもしれない。


 理杏としては、気分など微塵も害していない。


 譲次郎の対応は、欲求に身を任せないあたりは、それだけ理杏を想っていることの表れだろうと解釈できる。だから、ここで大事にしてくれてありがとう──と。そう、伝えることは容易いのだけれど。

「──そうね」

 あまりにも見透かしているふうな印象を与えてしまうのは、好ましくない。

 ぬくもりが、理杏の手を離れる。

 微笑んで、ちらとデジタル表示の腕時計に目線を落とした。

「比嘉君」

「うん?」

「その──先に廊下で待っててくれる?」

 理由を問われるより早く。

 スカート越しに内腿をなぞりつつ、理杏は熱の冷めやらぬ顔で困ったふうに笑って、


「ちょっと、すぐに動けそうになくて」


 と言った。

 譲次郎が、口許を手で覆った(もしかしたら、鼻孔を塞いだのかもしれない)。

「ゆ、ゆっくりでいいから。早川」

 それだけをどうにか言い残して──譲次郎は逃げるように資料室を出て行った。比較対象がいないので断定は難しいのだけれど、男性の想像力の何と豊かであることか。

 顔面の紅潮を抑える。スカートのポケットから携帯電話を取り出して、メモを起動。日付と時刻のみを入力する。今日は、舌を絡めるまで。詳細は必要ない。見直したとき、今日はこれだけを果たしたという実感があればそれで良い。


 この瞬間が、一番生きているように感じる。


 比嘉譲次郎。小学生の頃から、フルコンタクト空手の道場に通っているらしい。

 理杏は初めて彼と手を繋いだとき、腕の中に引き寄せられたとき、この手が人を叩くのかと、この身が拳を受けるのかと。いやに感じ入ったことを憶えている。

「父親の影響で始めたんだ。男だし強くなりたかった」

 空手を始めたきっかけの答えとしては、幾分言葉足らずだったが──。

「──悪い。喋るの多分あんまり上手じゃない」

 言葉を伝わりやすく並べて、アウトプットすることが不得手である。

 ある意味、お似合いのふたりだと思った。


 一度、なぜ告白にオーケーしてくれたのか、譲次郎から尋ねられたことがある。


 当時は彼の交際相手としてふさわしい早川理杏像が固まっていなかったため、理杏はこれまで交際した経験がないこと、しかし、交際自体に興味はあったこと、そんな折告白してくれたのがあなたで、無害な人だと思ったからオーケーしたのだと伝えるほかなかった。

 理杏にとって、これは誤算中の誤算だったのだが──。


「早川もそういうので焦ったりするんだな」


 意外にも、譲次郎は笑って。安堵しているふうにさえ見えて。

 別に──焦っているつもりはなかったのだけれど。

 頭にある雑多をそっくりそのまま発信して、受け入れられるケースもあるのだと学んだ瞬間だった。

                ※

 我慢強いだとよく言われた。

 おもちゃ屋さんの前を通ってもあれがほしいと言わない。アイスクリーム屋さんの前を通ってもあれが食べたいと言わない。友だちがバレエやピアノを習っていると知っても、自分もあれがやってみたい、仲間に入れてほしいと言わない。

 理杏としては、我慢しているつもりなどなかった。そもそも、欲した覚えがないし、与えられたところで嬉しいと感じたこともない。

 こと食べ物に関しては、子どもながらにあんな粗悪な植物油脂と添加物の塊、ヒトの食べ物ではないと。神経伝達物質の働きを麻痺させる毒物でしかないと解っていたので。


 ただ、周りの反応を見るに、"それ"は与えられたら喜ぶものであると、笑顔を見せるものなのだと、そのように学習もできたから。


 今では"ご褒美"に対して、用意してくれた相手に対して、どちらかと言えば適切なリアクションをとることができている。

 協調を美徳とするわけではない。ただ、溶け込むにはそれなりの努力を要する。

 今のリアクションはふさわしくなかった。ならば、こちらはどうだろう。今、この人が求めている、この状況にもっとも誤差なく当てはまる、早川理杏の最適解は。


 この積み重ねは、攻略に費やす時間は、幾分有意義であると思える。


 達成感を得るタスクとして、読書は優良だった。

 今日は何冊を何ページまで。実績が目に見えてわかりやすい。知らない単語や言い回しが出てきたら──というより、それらを意識的に拾う。意味を調べる。

 知らないを知っているまで落とし込む作業は、まさしく理杏向きと言えた。

 本というご褒美はねだらずとも両親が買い与えてくれたので、ストックには事欠かなかった。

 随分難しい本が好きなんだなと父に驚かれたが、殊更そういう本を好むわけではなかった。難解な書籍には、難解な用語が付きまとう。分厚い本であればあるほど、充足感が比例する。


「理杏は、将来何になるんだろうね」


 高い目標などなくとも。

 ただ意義深く重要で、価値ある行いにのみ真直ぐ時間を割ける歯車に。

「まだ──考え中なの」

 好きも嫌いもあるはずがない。


 法事で親戚の家を訪れたとき、従兄から小説をもらった。

 身近にその手の話し相手がいなかったのだろう。会う度、海外の都市伝説や怪奇映画について熱っぽく語る人だった。くれたのは、アメリカが舞台のSFホラー小説だった。


 人間社会に、ヒトに擬態ミメーシスした異形が紛れ込んでいる。


 ただし、

 二十歳の誕生日を迎えるとき、彼らは一様に使命を思い出す。自分たちが、人類の根絶を最終目的とする侵略者であると。その日が来るまで、どれほど愛を注がれていようと、つながりに恵まれていようと、バラ色の未来が待ち受けていようと。肉体は変貌する。DNAに刻み込まれた使命を全うするだけの捕食者と化す。

 面白いとは思わなかったが、積み上げの足しにはなった。


 中学一年生の頃、母の勧めで劇団に入った。

 母の熱意に負けたというより、そのらしからぬ熱意にこそ興をひかれた。

 本当に役が生きているようだと。理杏が舞台に立てばドラマが流れる。他の役者の立ち位置が決まる。団員の誰もが、役者としての早川理杏を高く評価したが。

 どうも──腑に落ちなかった。

 理杏が観客に魅せる喜怒哀楽は、舞台の外でアウトプットしているそれと全くもって相違ない。こういう状況ではこうリアクションせよ。こう問われたらこう返答せよ。

 記述通り、行動しているに過ぎないのだから。

 単に、立ち位置が異なるだけのこと。

 

 大人ぶった子どものような、あどけなさの残る大人のような、どこか──目を背けたくなるような声をしている。


 舞台監督は、理杏のつくらない声をそう評した。

「理杏くんは何にでもなれるね」

 誰にでもなれるがゆえに、誰でもない。

 誰かを演じる上で、妨げになるほどの自意識を元より持ち合わせていないのだから。

 そういう意味では、的を射た感想だと思った。


 劇団は、中学卒業と同時に辞めてしまった。

 母はそれとなく反対したが、理杏の学業に専念したいという表面上の口実を前に、渋々引き下がってくれた。

「理杏の人生だもの。理杏が決めたことだものね」

 そのとき母が浮かべた寂しげな笑みは、はたして理杏のみに向けられたものだったか。

 結局、早川理杏にとって舞台は日常の延長線上でしかなく、自分以外の人生を体感できるという役者の喜びはどこまで行っても当たり前が過ぎた。

「すみません。何にでもなれると言ってくださったのに」

 理杏の謝罪に、舞台監督は小さく目を瞠ったあと、

「あのねぇ──」

 何かを嚙み締めるように笑った。

「理杏くんが何にでもなれるのはこれからでしょ」

 

 星を神の許へと導く案内役に喩えたのはアーチボルド・ロートリッジだったか。

 帰りの車中、後部座席の窓からビル越しの夜空。

 光る金剛石や船の燈火、黒天鵞絨ビロウドのなかの銀糸の点をさしおいて。


 細胞セル


 理杏の口からひらめいた、声にならない声は──それ。

 星は、細胞に似ている。

 振り返れば、理杏にとって役を演じるとは小部屋セルを選ぶに似ていた。自身のうちに廻り舞台みたく区分された場面があって、役柄に合わせてそれを転換する。最適な場面に観る者をいざなう。

 目を瞑れば当然星は消えるが、この身は依然舞台の上にある。

「ねぇ、理杏」

 運転席の母が唐突に口を開いた。

「お腹空いてない?」

 指差す先に浮かぶは、たこ焼き屋のネオン看板。

 目をしばたたき、心中小首を傾げる。何をまた──らしくないことを。こんな時間にカロリーを摂ったら、翌日の脳のパフォーマンスに間違いなく支障が出る。その点を踏まえた上で、母の理想とする早川理杏像がそう言うべきではないと解っていたから、

「しょうがないなぁ」

 つきあってあげるよ──と声色に小生意気を宿して。


 こめかみを押さえる。


 ほどなくして、静謐を迎えた。

「理杏?」

 ルームミラー越しに母と目が合う。そこには理杏が小学生だったとき、図工の時間に作ったビーズアクセサリーが揺れている。

「何でもない。ちょっと──」

 言葉に、詰まる。

 こういう状況ではこうリアクションせよ。こう問われたらこう返答せよ。

 あらかじめ記述できていない場面に対しては、反応が遅れる。

 今しがたり上がった、あのエンジン音は何だったのだろう。

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