14『This is Not a Novel』
「どう? 面白かった? 面白くなかった?」
なぜ小説に対する感想が、面白かったと面白くなかったの二択なのだろう。
拳三つ分の距離を空けて──膝を抱えた
理杏は、閉じたばかりのA4ノートに目線を落とした。道具によってモチベーションが左右されるタイプなのか。高校生が愛用するには、少々値の張るノートだった。
このご時世、紙に直筆。幸い文字は整っているので、読むこと自体に苦労はないが──何でもデジタルデバイスを前にすると、文章が浮かんでこないらしい。当人曰く「緊張感がないんだ。簡単に消せると、その分余計なモノ書いちゃったりして」とのこと。
ローテーブルに、そっと作品を置く。
ベッドの側面に背をもたせかけ、判決を告げる。
「──可もなく不可もなく」
「ですよねー」
わかってたよぉーもぉーと言いながら、めくった掛け布団とベッドパッドの隙間に頭を潜り込ませるつむぎ。穴があったら入りたいという気持ちの体現だろうか。そのわりに彼女はこの決まり文句となりつつある判決を気に病まない。むしろ、期待さえしているように見える。
「前から、訊いてみたかったのだけれど」
「うん」
「──私のような素人のアドバイスが有用かは別として、どこがどう面白くなかったのか、そういう部分を聞き取らないと意味がないんじゃないの?」
もっとも、では具体的にどこが面白くなかったのかと訊かれたところで、理杏には答えようがないのだけれど。
理杏にとって小説とは、並んでいる文字情報が既知であるか未知であるか、その程度の差異しかない。もちろん文体、登場人物、プロットなどという観点からその完成度を評価することはできる。が、そこに感情の浮き沈み、好きと嫌いは付随しない。著名な文学作品だろうと領収書の束だろうと、理杏の前ではその読後感に大差はなかった。
「うーん、そういうヒントはね、いいの」
つむぎが、再び三角座りに躰をまとめる。
「そういうのはナシで、私は──早川さんが面白いって思ってくれるものを書きたい」
図書室で声を掛けられたのが、始まりだった。
「早川さんって本好きなんだよね? 私、文芸部で小説書いてるんだけど──」
そのとき、理杏が手に取っていたのはヘミングウェイの『老人と海』(サンチャゴが砂浜に戯れるライオンを見ているシーンだった)で──思えば、そうした選択もまた、つむぎに過ぎたる幻想を抱かせる一因となったのやもしれない。
そこから先はぐいぐい押されて──いつしか週に一度彼女の家に寄っては小説を読むのが習慣になっている。
一度、作品を持ち帰り、後日感想を伝える形式では駄目なのかと打診したこともあったが、「それは何か寂しい」というひどく素直な理由で却下された。そのわりに求める感想は二択なのだが。
つむぎには話していないが、理杏も小説を書こうと試みた過去がある。
中学二年生の春だ。理杏は自分で本を書きたいって思ったことはないのという父の言葉が引き金だった。そして、すぐに無意味だとわかった。
たとえるなら、コンピュータの予測変換機能。何文字か入力すれば、続く候補は出てくる。常日頃から目新しい語句の収集に励む理杏であれば、選択肢はそれこそ掃いて捨てるほどある。ただ、拾いたいと思う文字がなかった。組み合わせて、創りたいと思える世界がなかった。
結局、時間の無駄だと判断して止めた。
件のファイルには『これは小説ではない』というタイトルをつけて、何の戒めか保存してしまっている。
フォークで掬ったモンブランを口に運ぶ。これが人体に悪害をもたらす、精製度の高い材料を使って作られていることは知っている。何も健康的な食生活を志しているわけではない。正常な状態を維持するうえで、避けるべき非合理的選択を可能だから避けているに過ぎない。ただ。添加物に塗れた生クリームもどきの甘み。
つむぎと二人、こうしてケーキを食べる時間は厭ではなかった。
理由は言葉にできないのだけれど。
いつしか彼女と過ごすこの時間だけは、携帯のメモに残すことを止めてしまった。
実績の一つとして、数字の羅列に落とし込むことは
一連の動作を止める。つむぎの眼差しに気づいたからである。
「なに?」
「ううん、食べてるとこかわいいなぁって」
それは、一体どういう審美眼なのか。
奥底でエンジンが唸っている。記述が、途切れる。
「公募に──出そうと思ったことはないの?」
奥平つむぎの作品を。
つむぎが目を丸くした。問いの内容か、はたまた理杏がそれを問うたことに驚いたのか。喉をこくんと鳴らして、しばし上瞼沿いに
「私、才能ないから」
それは──才能がないから挑むまでもないという意味なのか。自身の実力を評価されることに対する恐怖を取り繕っているだけなのか。A4ノートに目線をやる。もとより結果を出す気がないのであれば、彼女にとってこれは何だというのか。
つむぎが皿の端にフォークを休めた。ベッドに腰掛けて、手近にあったクッションを胸に抱いた。
「私さ、将来何になりたいと思う?」
「──小説家でしょう?」
ハイブランドのノートまで買って、これだけの時間を割いているのだから。そう考えるのが、合理的ではないか。つむぎの口許はクッションに隠れていたが、目を見れば
「ホントはね。文芸部──もうあんまり行ってないんだ。皆ね、賞をとるとか、一次選考突破だとか、そういうのを目指してる。自分の書いた作品が、一冊の本になって羽ばたくことを夢見ている。不思議だよね。文章にしたって、絵を描くにしたって、皆何かを表現したいって思ったきっかけはバラバラだったはずなのに。私みたくお姉ちゃんの影響で始めたって人もいれば、イラストレーター志望だったけど難しそうだったからこっちに移ったって人もいて、ちっちゃな頃から小説一筋ですなんて人もいる。人の数だけきっかけがあって、人の数だけ表現したいものがあったはずなのに、目指しているものが同じって──何か、ヘンだなって。私は、それを」
つむぎが、言葉に詰まった。続きを考えているというより、この先を口にしていいものか、迷っているようだった。理杏と目が合った。目尻がへにゃりと下がった。
「気持ち悪いなって思っちゃったの」
こんなふうに、喋る
こんな胸の内を千切っては投げるような喋り方、自分には到底模倣できるものではない。
「一回そう思っちゃったら、色々ややこしくって。先輩は、たくさんの人の心を楽にできるのがいい小説だって。他の子もそれに頷いてたんだけど──。多くの人の胸を打つ作品に価値なんてあるの。それなら、書くのは私じゃなくてもいいんじゃないって。たった一人に喜んでもらうために書くのはお遊びで、たくさんの人に喜んでもらいたくて書くのは遊びじゃないんだって。理屈はわかるよ。けど、わかりたいとは思わないの」
これは、ただ耳を傾けていればいい類のそれだ。奥平つむぎのクラスメイトとして、黙って相槌を打っているのが最適解。なのに。
「表現者として、奥平さんは幸せに死ねると思うわ。それまでは、きっとつらいでしょうけど」
これは、どこからでてきた言葉だ。どこで学んだ文字列だ。今さら唇をなぞったところで、
つむぎは、静かに笑っている。クッションを抱く腕により力が込もって、瞳に幽かな光がちらついた。
「だから、早川さんに面白いって言ってもらえるお話が書きたいの」
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