12『Evangelium』
中学生だった頃の葛城陽を殺した。
目に映る何もかもに怯えていた彼が、もう怯えることはない。役目を終えたはさみを思い出のようにポケットに忍ばせて、血濡れた得物を手離せないまま、いま──陽は渡り廊下の前で立ち尽くしている。
廊下の中ほどに、白衣の少女が一人。
背丈の都合、両肘をつくのは難しいのだろう。手すりの上にちょこんと両手を置いて、景色を眺めている。ボストンタイプの眼鏡をかけた、あどけなさの残る横顔。あんな可愛い
少女がこちらに気付いた。サウンドエフェクトが聞こえてきそうなほど、晴々とした笑顔。スカートよろしく白衣の端をちょいと摘まんで、カーテシーをして見せる。
「陽くん、もういいの?」
──ようくん。
なぜ名前を知っているのか、尋ねようとして。小走りに近づいて来る。その、あまりの無防備さに。陽は慌てて得物を隠そうとして、結局断念した。
くりっとした大きな目、
何やら──眼に映すことさえ畏れ多い。
死が蠢く一〇〇〇
「もう──いいって?」
「うん、だってルナが迎えに来たから」
それは彼女の名前か、あるいは彼女が所属する何かか。
ただ、何とはなしにわかってしまうのは。
「僕をどこかへ連れて行ってくれるんでしょうか」
うんと、少女が快活に頷く。
幼い頃、よく膨らませた妄想だった。
誇れるものなど何一つとしてない。友だちの一人もいなければ、家族からもとうに見限られている。そんな自分の
兎角、理由は何だっていい。その才能は、今いる世界で開花させるべきではない。そこでは、認められようがないのだから。求められようがないのだから。
さあ、世界にいとまを告げましょう。
そう言って、女神様が手を差し伸べてくれる。
向こうの世界で目覚めた自分は、顔つきも躰つきもたくましくて、生まれながらに心を奪う者たちがあてがわれている。ときに支え合い、ときにぶつかり合い、彼らと共に成長してゆく。
これが、承認であると。
愛される、救いの物語であると。
皆で手を取り合い、希望に向かってひた走ることの大切さを知って、かつての世界で負った、消えないと信じて止まなかった傷が癒えてゆく。
「僕は」
言葉に詰まった。
案外──他人の目を見て話せる
「僕は、僕を必要としない世界だったから、今日まで生き延びてこられたんです」
世界がこんなふうになってしまったのも、ここがお前の場所だと言われている気がしてならなくて。中学の頃、自分を虐めた奴らよりも、高校に入って自分を虐めた林たちよりも、力になってくれなかった担任よりも、両親よりも。
この世の誰より、葛城陽は葛城陽のことが嫌いで。
「僕は、こんな僕が救われるべきだなんて思ったことがない。そりゃあ中学生くらいの頃は、思ったこともあるかもしれないけど、そんな僕は目障りだからさっき殺してしまった」
もし、目の前に女神様が現れたら、どうかこの手を取りなさいと微笑まれたら、きっと──自分は彼女の首を絞めながらこう言うのだ。お前は何もわかっていない。
よく言うだろう。虐げてきた奴らに対する一番の復讐は、あなたが幸せになることだと。同意見だ。だから、幸せを押しつけないでくれ。幸せになって何もかも見返せという報復を押しつけないでくれ。幸福を目指すことだけが、お前ごときの余生を賭して果たせる唯一だなどと断じないでくれ。
言われるがまま、光の下に晒されてしまったら。
そんなもの、いよいよ死にたくなってしまう。
「だから、僕は行けない。気持ちはありがたいんですけど、他に幸せになるべき人が大勢いると思うので、だから他をあたってください」
きっと、彼女は一風変わった天使みたいなものなのだろう。なら、なおのこと穢すわけにはいかない。
少女の横を通り過ぎる。
眼球のない葛城陽が、壁を引っかいている。しぶとい奴め。まあ、それもいい。どうせ時間は腐るほどあるのだ。葛城陽は、虫の死骸の味を知っている。犬の糞の味を知っている。視線に晒される孤独を、晒されぬ孤独を知っている。殴られ、蹴られ、煙草の火を押しつけられる苦痛を、頭から飲料をかぶる屈辱を知っている。
空風が止まぬ限り、終いはない。
せいぜい生き地獄を味わえ。
「しっつもーん」
思考を断たれる。振り向けば、少女が真っすぐ挙手をしていた。
「帰る場所なんてあるんですかぁ?」
別に──どこかへ帰ろうとしたつもりはなかった。それでも、目が彷徨ったのは。
途端、足場を無くしたような感覚に襲われたからだ。
「わかってると思うけどさぁ、お掃除があったのって
──あいさつ?
少女が、袖を僅かに捲った。ブレスレット型の端末を指差して、眉を八の字に歪めて。
「観るぅ? 挨拶してるところ」
呼吸することさえはばかられる、凍りついた空間。両親と暮らす家を、陽はそう形容した。凍りついた空間とは──何だ? 何一つ、具体性に欠ける。切り傷を顔につくって帰ったことはあった。両親は、見て見ぬふりをした。
本当に、そうだったか。
弁当にコーヒー牛乳をぶっかけられた。機械的に平らげて、明日から友だちと学食で食べるから弁当は要らないと母に告げたときの──あの、何か言いたげな眼差し。そもそも、どうして自分はあれを平らげた。なぜ捨てるという選択肢をとらなかった。林たちの取り立てに付き合っていたあの頃、引き出しから持ち出した金銭に父も母も本当に気づいていなかったのか。
見て見ぬふりをしていたのは。
──うるさいな、本当に何でもねぇって。
明るい方へ。
いま。
魔が、差した。
振り上げた棒を、少女の頭頂部目がけて──。
肘から先が、跳ね返った。腕を庇って、その場に頽れる。
理解が追いつかないまま──上げた目線の先。
心の臓。
躰を丸めた幼児と同等の量感をした心臓が、少女の傍らに浮いている。より正確に言えば、四本のチューブアームを駆使し、核と思しき心臓を宙に支持している。今しがた得物を手離すに至った一撃は、そのアームによるものだろう。心臓の中央には木製の箱型カメラが埋め込まれていて、蛇腹の先についたレンズが無様な陽を見下げている。
「ざっこ」
おっといけないとばかりに口を覆った少女が、陽の前に屈む。
「ゴメンね。つい口滑っちゃった。でも、せっかくだしもうちょっと滑らせちゃおっかな。先生に甘えに行ったところ、あれは結構面白かったよ」
「あまえ──」
屍体を滅多打ちにした。一打一打に、あらん限りの憎悪を込めた。
あれが、甘え──?
「だって、フツーだったらさぁ、あそこは犯したり犯されたりしている初恋のあの娘を見つけて野良犬みたいに泣き叫んだり、臓物のキャッチアンドリリースを繰り返してる親友を見つけて半狂乱になって喚くとか、そういうシーンでしょ? でも、陽くんにはそういう人がいなかった。そういうイベントに恵まれなかった。だから、せめて二三注意はしてくれた、教師として格好だけの働きは見せてくれた先生に甘えに行ったんでしょ? 死んでいるとわかっていたから。拒否されないと確信していたから、構ってもらいに行ったんでしょ? うんうん、構ってもらえて良かったね。ちょっとは──慰めになった?」
頭を撫でられる。手つきが病的にやさしい。
「先生も陽くんには感謝してると思うよ。ほら、林くんって人気のある不良じゃあなかったでしょ。男子からも女子からも煙たがられる──文字通りの不良品だった。だからこそ、先生も扱いには困ってたと思うんだよねぇ。そこで陽くんという
髪を愛撫する手が、はたと止まって。少女の口から、調子外れな笑みが吹き出す。
「もぉ~、そこは死んじゃった人が感謝なんてできるわけないやないかーいってツッコむところだってばぁ!」
少女の人差し指が、陽の鼻をやさしく小突いた。
「パーマストン、強く叩き過ぎちゃったかな。ゴメンね。痛くて、動けないよねぇ」
──違う。
あの心臓は、陽が持っていた棒のみを正確無比に打ち落とした。腕はまだ熱を帯びているけれど、決して動けないほどではない。今、動けないでいるのは。
単純に、何をされるかわからないからだ。
迂闊に動けば、今度こそ肉体を狙われるのではないか。今朝、滅多刺しにしてくれと、怒りと怯えの数だけ殺してくれと、身を晒していた自分はどこにいった。かつての自分諸共殺してしまったのか。
今になって。
あれほど呪ったこの命を愛おしいと思いはじめている。
背中を丸める。痛くて、動けない振りをする。抗うことは無駄であると学習して以来、初めて──怖いと思っている。
「もう、善い子ぶらなくていいんだよ? お父さんもお母さんも、さっさと死ねばいいのにってずうっと思ってたでしょ?」
「そんな──ことは」
怒りらしき感情はある。ただ、一向に疼いているだけ。頭が、回らない。だって、自分を産んでくれたのだし。育ててくれたのだし。
「産んでくれた? 育ててくれた? じゃあ、陽くんをいっちばん苦しめているのはだあれ? クラスのお友だち? 担任の先生? 違うよね。陽君のお父さんとお母さんでしょ。あの二人が陽くんを産まなきゃ、陽くんは痛い思いも苦しい思いもせずに済んだのに。なのに、産まれさせられた。"ここ"に。痛い思いを苦しい思いをするためだけに。産まれさせられたんだよ。つらいよねぇ、陽くん。でも、仕方ないの。この世界で陽くんに与えられた役割は、痛くて苦しい思いをするだけだから」
「君に──」
反論だ。反論しなければ。
悔しいからではない。兎角、盾突く意志を示さなければ──。
何かが、終わってしまう気がする。
「君に、僕の両親の何が解る」
「陽くんのご両親が所詮口先だけで、息子を助けるために何一つ行動しなかったことは解るよ」
少女の笑みは、変わらず晴れやかである。
「陽くんの命が生きるに値しないんじゃあない。この世界が生きるに値しないんだよ。それなのに、陽くんってばまだ善い子でいたいと思っている。お父さんとお母さんの息子でいたいと思っている。そんなちっぽけな未練が、ゴミ同然の葛城陽を"ここ"に縛りつけている。有象無象が生き死にを繰り返す、取るに足らない地獄ごときに。だから──」
そんな迷いは断ち切っちゃおうよ。
ガチリと頭部を固定された。いつの間にか、パーマストンと呼ばれた心臓が後ろに回って──陽の頭を三本爪のアームでしかと掴んでいた。
ねぇ、陽くん。
「陽くんのお父さんとお母さんを殺したのはルナたちだよ。陽くんのたった一つの心残りを排除したのはルナたちだよ。陽くんをこんな世界に閉じ込めてゴミたらしめている、諸悪の根源を断ったのはルナたちだよ。だったら、お礼を言わなきゃダメだよね。自由になるチャンスをくれたルナたちに。お父さんとお母さんを殺してくれてありがとうって。感謝しなくちゃダメだよね」
「そんな──こと」
言えない。言っていいわけがない。
「ほら~、早く言わないと。頭ナイナイになっちゃうよぉ?」
少女の脅迫とは裏腹に、三本爪からは僅かの圧も感じない。わかっている。もし、無理強いをされれば陽は自分に言い訳ができる。言わなければ、殺されていたから。
つい、心にも無いことを。
それをこの娘は許さない。
これは、なけなしの救いだ。暴力を気取ってやっているうちに言語化しろ。痛みに耐えられなかったふうを装えば、自分に言い逃れができるだろう。自分を
無様だな。
滅多刺しにされた陽が言う。肋骨の合間を縫って、心臓に刺さったナイフが放置されている。顔には、天に届かなかった唾が粘りついている。あれほど、殺してくれと粋がっていたくせに。
汚泥と膿に塗れた言葉の一つひとつ、されど──陽の耳には届かない。
もう、こうはなりたくないとしか思えない。
「お」
「うん」
「お父さんとお母さんを──殺してくれてありがとうございます」
「──もう一回言っとく?」
「お父さんとお母さんを殺してくれてありがとうございます」
「あー、今のは聞こえなかったかも?」
「お父さんとお母さんを──」
どうしてコーヒー牛乳塗れの弁当を平らげたのか。捨てるという選択肢をとらなかったのか。親の財布から金を持ち出すことに後ろめたさを覚えたわけではない? 馬鹿馬鹿しい。考えるまでもない。
そんなの。
「殺してくれて──ありがとうございます」
迷惑をかけたくなかったからに決まっている。
あなたの息子が虐められていますなどと知ってほしくなかったからに決まっている。
そんなつまらないことで。
気を病んでほしくなかったからに決まっている。
三本爪が、頭から離れた。
項垂れて──下唇をぢくりと噛んだ陽に向かって吐き捨てられたのは。
「はっ」
嘲笑。真新しい
「殴られ、蹴られ、辱められ。居場所もつくれず、見限られて。これまでず~っと我慢できてたのに。ヘンなの。これっぽっちかわいがられたくらいで、そんなこと言っちゃうなんて。お父さんとお母さんが聞いたらどう思うだろうね?」
──お父さんとお母さんが聞いたら。
顔を上げた。
少女が、これ見よがしに袖を捲る。
人差し指が、ブレスレット型の端末をタップしようと迫る。
待て。殺したのはルナたちだよ。だって、殺したと。たった一つの心残りを排除したのはルナたちだよ。排除したと得意げに言っていたではないか。諸悪の根源を断ったのはルナたちだよ。根源を断ってやったと。さきほどのあれは、陽の未練を断つ儀式であって。まさか。
──聞かれていた?
おとうさんとおかあさんをころしてくれてありがとうございます。
待ってと縋る陽の叫びは、
「ウソだよ」
少女の一言をもって亡きものにされる。
「──え」
少女の頭上に、黒板ほどの大きさをしたディスプレイが浮かび上がる。
嫌でも飛び込んでくるのは──。
眦を裂いた。陽は、目を離せないでいる。
目を離さぬことをもって、これを自罰とする。
「教えてあげたでしょ? 殺したのはルナたちだって。排除したと、根源を断ったと、陽くんの望み通りにしてあげたと、そう伝えたでしょ? 陽くんがどんなに親不孝なこと口走ったって、お父さんもお母さんももうぐっちゃぐちゃ。何にも聞こえやしないよ。あっ、そうそう!」
少女が膝立ちになって、陽の顔を両手に挟んだ。
畢竟ぐっちゃぐちゃのそれは見えなくなった。
「今のは、本気だったでしょう? 口先だけじゃない。心の底から死んででよかったと、お父さんとお母さんを殺してくれてありがとう、助かったよって、一瞬思っちゃったでしょう?」
反論──できない。
だって、少女が嘘だと言ったとき、陽はどこかで安堵したから。
聞かれてなかったならいいかと、もう死んでくれていたならいいかと。
幽かな緩みを感じてしまったから。
陽の額に、ささやかな口づけが与えられる。
「愛おしいね、陽くんは」
少女の目には──大粒の涙が潤んでいる。噫、たった今。
葛城陽の中で、何かが終わった。
身を投げるように、抱き着かれる。肺をすっかり満たしたくなるほど、甘々しい香りに包まれて。どうしようもなく──その背に手を回したい衝動に駆られながら、肩を掴むに留まる。
「陽くんがルナと一緒に行きたくないのは、自分のことが嫌いだからだよね。役立たずだった葛城陽が、ここではないどこかでちやほやされるなんて許せないんだよね。けど、ちやほやされるって苦しいんでしょ? 必要とされないこと以上に、必要とされることもまた苦痛なんでしょ? だったら、虐めてあげる。これまでとは違う、愛を込めたやり方で虐げてあげる。愛した分、返してだなんて言わない。陽くんからは何も与えようとしなくていいの。苦しみたいなら、だいっキライな葛城陽を苦しめたいなら、ルナがめいっぱいの愛で溺れるほど苦しめてあげる。息も絶え絶えにしてあげる」
脳が
少女が、耳許で囁いた。
「ねぇ、特別になりたいって言って。そしたら連れてってあげる。魔法の呪文は、そうなりたいって思う人が唱えないと意味がないんだよ」
陽は、ぎこちなく彼女の背に手を回して──。
「僕は」
まだ、一歩も動けていないような気がした。
担任の屍体の前から、惨状が流転する教室の前から、血塗れで目を覚ました男子トイレから、虫の死骸が浮かぶ汚水の前から、たくさんの人を照らす太陽みたいな男の子に育ちますようにと願いをこめられたあの日から。
一歩も、動けていないような気がした。
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