第10話 楽園

 紺碧が鏡合わせのように続いていた。青い空と、エメラルドグリーンの海。

 もし、逃走犯が乞い願う最後の逃亡地があるとすれば、こんな平和な南の島なのだろう。

 だが、砂浜に腰掛けて、水平線を見る來島レナの表情にはなんの喜びも癒やしも浮かんではいなかった。

 虚無、というには穏やかすぎる。それは虚空を見つめているものの視線だった。

 赤いシャツ一枚に、白のパンツ一丁というラフすぎる格好で、レナは腰の後ろに手を置いて日光浴に浸っていた。その左腕に腕時計はない。もう必要ないからだ。

 一人の男が、レナに近づく。砂嵐のやすりをかけたような、肌荒れのひどい四十歳程度の顔つきで、黒い背広を着ていた。


「よう、元気ぃ?」

「……あなたは」

「ヤギハラ。こうして顔を合わせるのは初めてだったかな。ヘタに顔を覚えられると暗殺されちゃうし。ま、それもこれでようやく終わったというわけだ」


 ヤギハラと名乗った男も、どさりと砂浜に腰かける。


「どうだ、この島は。気に入ったか?」

「……どうも。食べられるものがたくさんあって、助かるかな」

「俺はいつも思ってた。世界史で勉強してる頃から。セントヘレナに流されたナポレオンは、ほんとうに不幸だったのかって。だってよく考えてみろ、セントヘレナがどんなところだったか知らないが、もし清潔で穏やかな島だったら、なにを好んで戦地に戻る? ずっとずっと、平穏な島で暮らせばいいじゃないか? それは刑罰でもなんでもない。高校生の頃、俺はそんな風に思ったんだ」

「何が言いたいの?」

「そうだな、この刑罰は、少なくとも來島怜奈には極刑としてふさわしかったのかどうか、俺自身にもわからんって話さ」


 胸ポケットからタバコを取り出し、ジッポライターで着火する。まずそうにヤギハラはタバコをふかしながら、


「だが、どうやら効いてるらしいな。すまんが俺もシゴトでね。おまえには、死一等の刑罰を課さなきゃならん。おまえはそれに適うだけの人を殺したからな」

「そうね。わたしはたくさん殺した……世の中をよくしたくて」

「わかるよ」灰を砂浜に落としながら、

「気に入らないやつを全部ブッ殺せば、世の中の風通しがよくなる。どうしてだれもそれをやらないんだろう? 誰だってそう考える。俺だってそう思う。けどな、どうも罪らしいんだわ、その考え方は。たとえ、法律に定められていなかったとしても。無罪放免になってもよしと人間が裁いたとしても、不思議とそれは罪なんだなァ」

「……わたしの活動のおかげで、救われた人もいるはず」

「いるよ。そりゃあいる。俺はそれを見てきた。おまえを追跡している過程でな。何度も思ったよ。おまえは正しいんじゃないかって。だから、俺はここでそれを議論するつもりはないんだ」

「……どういうこと?」

「おまえを大量殺人の咎で、この島へ追いやったわけじゃないってこと」

「……は。意味がわからない。それ以外にわたしにどんな罪があると? 国家転覆? それとも銃刀法違反だとでも?」

「いや」


 とヤギハラが言葉を切ったとき、おーいと呼び声がした。

 二人が振り返ると、ジャングルの中から――その島はほとんどが密林だった――素っ裸の青年が走り出してきた。顔はひげもじゃで、嬉しそうだということ以外はどんな顔かわからない。右手には胴に穴が空き血を流しているまるまると太ったウサギを掲げ、背には猟師用に改造を繰り返された弓を背負っていた。


「見てよ、レナさん。こんなにおっきなウサギがとれたよ! 今夜はごちそうだね!」

「うん、そうだね。ありがとう。すごいね」


 ぱちぱちと小さく拍手するレナに褒められ、青年は嬉しそうに鼻をすすり、「そうだ、皮も剥いでレナさんに毛布を作ってあげる!」とまた湯船にでも飛び込むようにジャングルの中へと消えていった。風のような子だった。それを見てヤギハラが微笑む。


「元気そうだな」

「困っちゃうくらいね」

「そう言うな。男の子はああじゃなきゃ困る」

「……ねぇ、どうして、わたしとあの子を同じ島に閉じ込めたの?」


 そう、逃げられるはずもなかった。

 レナのモーターボートは公安の追跡船舶にあっけなく囚われ、狙撃手の青年もすぐに確保された。

 あの夜、運命が分かたれたのはたったひとつ――レナが生きるか死ぬか、死刑執行が仲間の手によって行われるかどうかだけであり、逃亡に関しては、二人は明日なき疾走に駆け出したに過ぎなかった。

 そして、今に至る。


「おまえは、あいつを使ったんだ」

「……道徳の話? そうよ、利用したの。わたしの目的のために。わたしの夢のために」

「ああ、構わんよ。いくらでも夢を見るがいい。夢で済む間はな。おまえは、この世界をめちゃくちゃにしようとした。気に入らんという理由で。もっといい世界を自分なら作れるという確信で。そんなおまえに、この無人島はお似合いの牢獄だろう。おまえはもう何も変えられない。誰にどんな意見も伝えられない。ましてやそれを殺しで表現するテロリズムとは永遠にオサラバさ。どう頑張っても、この島からはモーター動力のある船でしか、脱出できない潮の流れで囲まれてる。おまえら二人はここから出ることはない」

「……だから、何?」

「おまえはあいつを『使った』。その責任を取れ。人一人を恣意にするってなァそういうことだぜ。覚悟を決めて、銃爪を弾かなきゃダメさ。どうなるか考えもしなかった、なんて言い訳は通用しない。……あいつは最後、あんなひどい雨の中でも命中させた。おまえを繋いでいた鎖に。全部おまえのためだ。おまえを助けたくてやったんだ。だったら、おまえもあいつに応えろ。あいつがやってのけたのと同じくらい重い決断を、してやってもいいんじゃねぇか?」

「…………わたしは」

「ここを地獄にするか天国にするか、おまえが決めろ。俺は知らん。俺はこの世界から『來島怜奈』を抹殺した。任務完了だ。もう用はない」


 ヤギハラは立ち上がった。レナは、初めて顔を見た己の宿敵を見上げる。


「待って」

「ん? なんだ、俺までこの島にはいられねーぞ」

「違う。……わたしの野望を阻んで、あなたは何がしたいの? ただシゴトだからやったっていうの?」


 ヤギハラは肩をすくめて、ほくそ笑んだ。


「教えてやんない」

「は?」

「それもまた、俺がおまえに与える刑の一つ、ってとこだ」

「……冷たいのね」

「おまえが殺し回った連中の死体も、すぐに冷えていってたぜ。じゃあな」


 ヤギハラは片手を振って、どこかへ消えた。それっきり、戻ってきはしなかった。

 レナは水平線を見つめる。

 その先にあったはずの、自分の夢を――










「レナさん! レナさん! すごいよ、すごいの見つけた! こっち来て!」


「はいはい、わかったから。今行くよー」


「もう、いなくなっちゃうよ。すンごいんだから、ほんとうに!」


「わかってるってば、もう、元気だなァ」




 レナは立ち上がり、首がネジ切れるほど強く後ろを振り返ってから、やがて密林の方へ歩き出した。

 少なくとも、考えもしていなかった自分の人生の、新しく、そしてエンディングの決まった物語へ向かって――
























         レナさんがとってもいい人だから




               END

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レナさんがとってもいい人だから 顎男 @gakuo004

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