第7話 レナ
1.2キロ先の野外音楽堂は遠すぎて、演奏されるちっぽけなピアノの音なんて全然聞こえなかった。
「ピアノは好き?」とレナさんが聞いてくれて、僕は小学生の頃、近所の裕福そうな家から聞こえてくるピアノの音をよく帰りに立ち止まって聞いていたのを思い出した。あれからずいぶん世の中は荒んで、ピアノの音はどんな家からも聞こえなくなってしまった。
だからぼくは「好き」と答えた。それから照れ臭くなって、「病院で流れるからね」とよくわからない返しをした。
レナさんは何かニヤニヤ笑って僕の答えを聞いていたけれど、やがて首掛け式のイヤホンをくれた。超大手の電機会社が製造した最新鋭のノイズキャンセリング機能がついたイヤホンで、飛行機の中でもエンジン音がまったく聞こえなくなるらしい。それが野外音楽堂のスピーカーそばの音を拾っていて、「せっかくだから聞いてみなよ」と言ってくれた。
いま、午後から始まった演奏会は終盤に差し掛かっていて、なにか自分の中に無いものを必死に演奏することで誤魔化そうとしているような苦しい表情をした男の子がピアノを弾いていた。引き攣った心から滲み出る恐怖に震えたその音色は、不思議とぼくを安心させた。あの子とぼくは同じ種族なのかもしれない。
イヤホンを外して首からぶら下げながら、隣にいるレナさんを見上げる。
「ねぇ、レナさん。次の演奏をする子を撃てばいいの?」
「違う違う」とレナさんは双眼鏡を顔に当てながら答える。
「その子のお父さんを撃つんだよ。テレビに出てたでしょ。警察の大物」
「警察は悪いやつなんだね。レナさんが死なせたがるなんて」
「そうだよ。みんな、結局は自分のことしか考えてない。誰のことも救えやしない……それが、国家」
レナさんは双眼鏡に呪文をかけるように呟いた。そのおまじないが、ぼくの手の中にあるライフルにもかかればいいと思った。
「どう、今日は。風とか湿気とか。スナイパー日和かな?」
「うん、最高だね」
ぼくはスコープを覗いて、自分たちのいる廃教会の尖塔から野外音楽堂までの間を舌で舐め取るように眺めた。ヨーグルトの蓋の裏についた残りカスも欲しがるように。
黒服にサングラスというわかりやすいボディーガードがちらほらと蟻のように蠢いていたけれど、ぼくの射線を阻むほどじゃない。それにどの警戒網も、この教会までは届いていない。
「珍しいね、レナさんが射程を伸ばして欲しいなんて言い出すなんて。いつも1キロでやらせてくれるのに」
「ちょっとね」とレナさんはつぶやく。双眼鏡を顔から外して、
「最近どうも、昔の知り合いがわたしを見つけたらしくて。それで、ちょっと用心してるの」
「そうなんだ。レナさんは有名人なんだね」
「そう、そうだね。わたしを知らないのは、君くらいかもしれないね……」
「え?」
「なんでもない。それより、そろそろ集中した方がいいよ。もうじき、次の演奏が始まるから……」
ぼくは言われた通り、イヤホンを両耳につけた。演奏がちょうど終わり、ぱらぱらと拍手の音が拾われて鼓膜に届く。
スコープを覗くと、音と視野のずれた世界がぼくの両目を埋め尽くした。
ステージにはスポットライトを当てられたピアノが、次の演奏者を待って、夕暮れの中で静かに佇んでいる。ステージの前にある水盤はそんなピアノを鏡のように映してゆらとも動かない。周囲を半円周にめぐる形の聴衆席にはタキシードやパーティドレスを着たお金持ちそうな人たちが笑顔を浮かべて談笑していた。ぼくは意味もなくトリガーを指先でいじくる。安全装置はもう外してある。
次の演奏者が、壇上に上がってきた。
大柄な男の人と化粧の濃い女の人が同伴して、ピアノのそばの席に座る。両親だろう。
演奏者はまだ中学生くらいの女の子で恥ずかしそうにピアノに座り、何度も位置を調整していた。そして思い出したように立ち上がって聴衆にぺこりとお辞儀。最新鋭のイヤホンがクリアな笑いをぼくの耳に届けた。
いいな、と思った。段取りを間違えたのに謝って赦されるなんて。ぼくは一度も赦されたことがない。レナさんに出会うまで。いや、出会ってからだって、本当に赦されたことがあるのかどうかわからない。
だってぼくはまだ一度も外してないから。
ぼくが外したとき、レナさんはどんな顔をするんだろう。
考えたくない。
そんな未来は見たくない。
ぼくはスコープ外にある左目を瞑った。
レナさんが紹介してくれた眼科医によれば、ぼくの利き目は右らしい。
だから右に全部を集める。遠近感なんていらない。こんな距離で、そんなものは存在しない。
演奏が始まる。
最初の旋律がイヤホンから耳に流れ込んできた瞬間、イヤピースを握り潰したくなった。それは、そんな旋律だった。
綺麗で、透き通っていて、でも、なにもない。安らぎのように見える、ただの空白(ブランク)。
少女がうっすら口元に浮かべながら鍵盤を叩いて産まれるその音色は、ぼくにとっては耐え難い騒音だった。
あの子の心にはなにもない。憎しみも、怒りも。そして、そんな幸せに成長していけるあの子が、ぼくは憎くて憎くてたまらなくなった。
そばでうっとりしながら自慢そうに演奏に耳を傾ける親どもも、感嘆の吐息をつく聴衆も皆殺しにしてやりたくなった。
指先が震える。ぼくの指先だ。
愛されたことなんてない。わかってもらえたことなんてない。
信じてもらえたことなんて一度もない。
それなのに、あの子はぼくが欲しかったものを全部持ってる。ぼくが欲しくて欲しくて、裸踊りしてでも手に入れたかったすべてを、あの子はあんなに若いのにもう持ってる。その手に、全部。
どうして?
ぼくとあの子の何が違うんだ。何がそんなに違うんだ。あの子はよくて、ぼくは駄目。そんなことばっかりだ。ぼくがなにをした? ぼくだって、こんなにすごい狙撃をやってのけるじゃないか。もっと褒めてくれたっていいじゃないか。なのにぼくはレナさんと一緒に隠れてばかりで、あんなふうに周りからうっとりした目で見てもらえない。
どうして?
ぼくや、さっきの恐怖に慄いていた男の子のほうがずっとずっと凄いんだ。ずっとずっと値打ちがあるんだ。どうしてそれがわからない?
ぼくは危うく少女を撃ちそうになって、ふとレナさんの視線を感じた。
スコープから顔を外してレナさんを見上げると、レナさんは見たことがない表情でぼくを見ていた。
それはぼくの考えているすべてを見透かしている顔だった。
そして、今にも「撃て」と言いそうな唇が弱く細かく閉じられていた。
ぼくは思い出した。そうだ、撃つのはあの子じゃなかった。失敗失敗。
スコープを覗き込む。
焦点はもう合わせている。鏡像の中の男の人の胸板が厚く映る。中心の十字架が獲物の心臓に重なる。中心より少し左、けれども決して左じゃない。少しだけ、少しだけ――引き金を引き絞る、まさに殺害の瞬間、水飛沫がスコープの中を埋め尽くした。水盤だ。あれは噴水になっていて、この狙撃を読んだ誰かが意図的に噴かせたのだ。どの射線から誰を狙っていても、あの噴水が吹けばスコープの視野を妨害する。しかしそれは照準を合わせるまでの話だ。ぼくはしっかりと噴水から水が噴くまでの間にターゲットの心臓に十字架を溶接していた。無風で平穏。絶対に外せないライフルリンクス。ぼくにはそれがわかっていた。あとは引き金を気にせず引くだけだった。カンタンなシゴト。残念だがぼくの方が一枚上手だ。
それでも動揺した。
弾丸はあっけなく噴水を吹き終えて沈んでいく水の指をかいくぐりながら男の人のこめかみをわずかにえぐっただけで後方に通り過ぎていった。だがそれでも警察官僚だとかいう男には大事で、椅子からもんどり打って後ろに倒れ込み舞台袖に消えていくのをぼくは呆然と眺めた。
音楽堂は悲鳴と混乱の大釜と化して、まだ父親が銃撃されたことに気づかず目を閉じて演奏を続けている女の子以外は大パニックになっている。
それはぼくもだった。
すでに舞台裏に引きずりこまれたターゲットがなにかの拍子に顔を出さないかといまだスコープにかじりつき場内の視野で軽挙妄動の限りを尽くしていた。
まだだ、まだ撃てる、まだ当てられれば外したことにはならない――だけどいきなり左腕を掴まれてその場に転がされた。イヤホンが吹っ飛んでパニックの音声が一気に消滅する。
ぼくはいたずらを見つかった子供のように寄る辺なくレナさんを見上げていた。レナさんはやっぱりよくわからない顔をしていた。怒っているようには見えない。汗をかいているから焦ってはいると思う。
「れ、レナさん……ぼく……」
「逃げるよ」
レナさんはそれだけ言ってぼくの腕を掴んだ。ぼくは大慌てで、潜入道具のほとんどを教会の尖塔に置きっぱなしにしてしまいながらもなんとかライフルだけはスリングベルトをひっ掴んで肩に背負った。螺旋階段を降りながら、周囲が真っ赤に染まっていることに気づく。夕陽だろうか? でも、それにしてはその赤い光は回転していた。パトランプだ、とぼくは思った。
『來島怜奈。いるのはわかっている。狙撃犯も一緒だな? この教会は包囲されている。大人しく出て来たくはないだろうが、我慢しろ。悪いようにはしない。ほんとだぞ?』
「ヤギハラ……!」
「この声、警察? バレてたの? レナさん?」
レナさんは答えてくれなかった。ぼくの腕を痛いほど掴んで、教会の階段を降りていく。螺旋階段はとうに終わっていて、別棟へ向かう中継廊下に出ていた。そこから別棟の避難階段で裏口に出れば森林公園に出る。そこから脱出するのが最初の予定だったけれど、いまでも使えるルートなのだろうか? だが、レナさんは降りるとみせかけて階段を登っていった。でも、どれだけ階をあげたって最後には屋上が待っているだけだ。レナさんには、助けてくれる仲間がいるんだろうか?
「レナさん! こっち行ったって逃げられないよ! それよりどっかから飛び降りた方が……」
レナさんはぼくを無視する。レナさんに無視されたのなんて初めてで、ぼくはとても悲しくなった。きっとぼくが外したからだ。もうぼくを赦せない気持ちでいっぱいなんだ。赦したいのに、どうしても赦せない、あの気持ちになってるんだ。ごめんレナさん。ぼくがバカで、グズで、どうしようもないヘタクソだから、レナさんに迷惑をかけてしまった。ターゲットを狙撃できていれば、レナさんだってもっと冷静に脱出できたかもしれないのに。ぜんぶぼくのせいだ。ぼくが悪いんだ。
「レナさん、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
「いいから走って!」
「ひっ……」
怒鳴られて、涙が出てきた。ぼくはレナさんを裏切った。最低だ。最低のクズだ……
階段の踊り場で、ぼくとレナさんは立ち止まった。レナさんは息を切らせていて、パトランプで真っ赤に染まった横顔は美しくも孤独な炎の魔女のようだった。あれ、そんなに怒ってないのかな、とぼくが思った瞬間、レナさんは微笑んだ。
「怒鳴ったりしてごめんね」
「い、いいんだ……レナさん」
「これあげる」
レナさんはぼくの手を掴んで、何かを握らせてきた。開いてみるとそれは、レナさんが魔法のようにどんなビルの扉でも開けてしまう、金色のマスターキーだった。
「え……でもこれ」
「欲しかったでしょ? わかってたんだから」
「う、うん……でも、レナさんが持ってれば一緒だから」
レナさんは何も言わない。
「レナさん?」
「きみはね、わたしが出会ってきたなかで、一番オトコらしくて、勇気があって、なんでも叶えてくれるヒーローだったよ」
レナさんがぼくの胸に手を伸ばす。
「信じてる」
そして、とん、とぼくの胸板を押した。
ぼくの足腰なんて、貧弱極まりない。走り疲れてへたりこみそうだった。
だから、後ろが階段だとわかっていながら、ぼくは無様に転がり落ちた。衝撃と激痛が騒音となってぼくの脳みそをガンガラゴンと揺り動かした。悲鳴をあげたかどうかもわからなかった。誰かがレナさんの名前をひどく険しい声で叫んだ気がした。そしてタタタッと遠のいていく誰かの走る音。ぼくは必死に叫んだ。
レナさん、
レナさん、
レ ナ さ ん !!!!!!
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