第9話 嵐雷狙撃

 コーヒーの味なんてわからなかった。だが、いつからだろう、コーヒーを飲むようになって、時間を潰し、眠気を覚まし、砂糖もミルクも入れずに黒い水面を眺めるようになったのは。

 大人になってからか。公安になってからか。

 それとも來島怜奈を追跡してからか。

 もうヤギハラには思い出せない。喫茶店の角席、学生が勉強に使いそうな一角に座って、ヤギハラは自分以外に誰もいない店内から、窓の外の海岸線を眺めていた。夢の中に突如浮上した砂浜のように、真っ黒な水に気まぐれに撫でられながら黄褐色の砂線がどこまでも伸びていた。

 いい場所だな、と思う。今度はこんな、雷雨轟く憂鬱な夜に来るのはやめておこう。

 スマホに向かって言う。


「スコープを使えば見えるだろう。沖合に、小さな船が浮いている。モーターボートだ。今、船は誰も運転していない。運転手はマストポールに手錠で両腕を拘束されているからな。エッチな体勢だ。おじさんはワクワクしている」


 鎮静薬が効いているのだろう……來島怜奈は軽く首を垂れ、うつろな眼差しを四方に投げているようだった。ずぶ濡れのシャツが雨で染みて、中の下着が透けている。


『れ、レナさんを解放しろ。な、な、なんてことを、なんてことをするんだ。あんなところに一人で……転覆しちゃったらどうするんだ!』

「死ぬだろうな」ヤギハラはコーヒーを飲む。それは外の海からくすねてきた、たゆたう黒海の破片のように思えた。

「あと風邪をひく」

『ふざけるな!! こ、この人殺し!』

「おまえが言うか? 笑わせんな、名狙撃手さんよ。言っておくがな、これは任務なんだぜ? 俺には來島怜奈の処刑権限が与えられている。殺しのライセンスってやつだ。あいつは人を殺しすぎたし、世界を動揺させすぎた。いまさら赦してはもらえんよ。これは俺のシゴトなんだ、小僧」

『お願いだ』電話口の声は泣きそうだった。

『レナさんを助けてあげてよ。殺されるなんて可哀想だ。なんにも、なんにも悪いことなんてしてないんだ。撃ったのはぼくだし、死んだのは悪いやつらなんだ。どうしてそれがダメなの?』

「來島怜奈も、そう思ってるだろうな……」


 ヤギハラはチラリと沖合を見やる。喋っている間に本当にレナのボートが転覆しては面白くない。


「そこでだ、小僧。って歳でもねぇか? まぁいいや、俺と取引をしよう」

『なんでもする。なんでもあげるよ』

「そうか? そりゃよかった。いま、おまえの手元にライフルがあるだろう? おまえの愛用のライフルだ。探したんだぜ、おっぽり投げやがって。ちゃんと分解して整備しておいたから感謝しろ」

『誰を撃てばいい? 言ってくれれば、いつでも手伝ってあげるよ』

「ほんとか? そりゃあいいや、今度お願いするよ。俺がほんとうにおまえと手を組む気になったらな。それで……証明してみせて欲しいんだ。おまえが本物だって」

『……なんだって?』

「俺はまだおまえが射撃するところを見たことがない。見てみたいんだよ。それも、当てるところを」

『わ、わかった。なら、いつがいい? 今夜はダメだよ。嵐だから』

「いいや、今夜だ」


 ヤギハラはコーヒーをすべて飲み干した。目を細めてガラスを叩く雨を見る。


「今夜だ」

『……無茶言うな。こんな風と雨の中で狙撃なんかできないよ。誰だって無理だ。神様にだってできやしない』

「そうだな、神様しかできないだろう。俺も専門家に聞いてみたが、みんな同じ反応だったよ。そして俺はこう思ってる。逃亡中の指名手配犯・国家反逆罪を犯した大罪人・來島怜奈はその途中で、たまたま『神様』を拾ったんじゃないかって」

『……なに言ってんの……?』

「來島怜奈を助けたければ、あいつの手錠をその公園から撃ち抜け。雨は強く、風は頬を叩く、角度は絶景の急勾配。狙撃手なら誰もが嫌がるその場所から、およそ2キロの狙撃を成功させろ。弾丸は超長距離用に装填し直してあるが、試射のチャンスはくれてやらない。一発で当てろ」


 電話口の声はしばらく黙っていた。やがて絞り出すように言った。


『……あんた、おかしいよ』

「そうかな」

『できるわけない、外したらレナさんに当たっちゃうかもしれない!』

「かもじゃないだろ。おまえの腕で狙って外せば、間違いなくあいつに当たる」

『頼むよ』懇願するような口調、

『お願いだ、こんなひどいゲームはやめてくれ。できるわけがない。ぼくは、ぼくは英雄なんかじゃないんだ。ただの、ひきこもりの、発達障害の、シゴトもろくにしてない穀潰しなんだ。母さんの言う通りだった。ぼくにはなにもできるわけないんだ。ぼくはただのゴミクズなんだ』

「おまえのママの話なんか知らねぇよ」ヤギハラはせせら笑った。こんな才能を持った息子に気づかぬ女になんの値打ちがある?

「俺の要求はただひとつ。人質を開放する手段もたった一つ。來島怜奈を繋いでいる鎖を、おまえが撃て。大丈夫、あの女はモーターボートの操縦経験があるからな。当てりゃ逃げ出す。どこまでも」

『あんたにぼくの気持ちなんかわからない。わかるんだ、できないって……』

「それを決めるのは今のおまえじゃなく、銃爪を弾いた瞬間のおまえだろう」


 ヤギハラは椅子に座り直した。おかわりかと身構えるウェイトレスに目で遠慮をして、


「いいか小僧、自分がやったことに責任を持て。やるなら最後までやれ。いまさら当てられませんってのは通らねぇだろう。おまえにブッ殺された八人が、あの世でおまえを待ってるよ。おまえはもういまさら無かったことにはできねぇんだ。おまえが届けた距離は不可能犯罪、誰にも真似できない距離だったんだよ。それをおまえは撃った。いまさら素人ぶったって駄目なんだ。おまえがおまえであることが、スナイパーの証明なんだ。だから、当てろ。おまえが撃って、來島怜奈を救ってみせろ」


 しばらくして、電話口の向こうの小僧が言った。


『……あんた、ぼくに当てて欲しいのか、外して欲しいのか、どっちなんだよ』


 ヤギハラは笑って答えた。



「さあな」


 ○


 あいつは頭がおかしいんだ。レナさん、どうしよう。

 ぼくはライフルをケースから取り出して、三脚を立てて、ワニのように腹ばいになりながら街を一望した。街の電気の明かりと一瞬だけ閃く稲光で、沖のボートはなんとか見えた。

 レナさんがぐったりしていて気分が悪そうだったけど、目は覚めているみたいだった。スコープ越しに視線があった気がするけど、すぐ逸らされてしまった。当然だ、ぼくのスコープからだって、レナさんはほとんど豆粒なんだ。

 頭の上で絡まされた手錠の鎖だけを撃ち抜くには、ちょうどヘッドそのものと上下の狙撃線を揃えないといけない。狙撃でもっとも怖いのは縦揺れだ。横揺れはちゃんと深呼吸できていればほとんどない(ぼくはいままで、横揺れで狙いがズレた時は必ず次の狙撃までには修正した。横揺れの先にあるのは『狙撃失敗』だからだ)。

 でも縦揺れはライフルそのものの反動や地球に引っ張られて落ちていく強さなんかで簡単に変わる。しかも風と違って弱くなった瞬間を狙うこともできない。重力はいつだってぼくたちを法律や常識のようにがんじがらめにして、自分の手元に置こうとするからだ。それをすり抜けてターゲットを撃ち抜くのは難しい。

 なぜぼくにそれができたのか、今までの狙撃がどうして成功したのか、実はほんとうのところはわからない。いろいろ理由をつけることはできても(横揺れがどうとかみたいに)、結局それはぼくがあとからつけた理屈でしかない。どうして当たるのか、ほんとうは誰にもわからない。だからぼくは、いつだってライフルのスコープを覗くのが怖い。どうして当たるのかわからないってことは、どうしたら外さずに済むかもわからないってことだから。

 そして、ぼくは、今夜、憎しみという相棒を失った。

 ターゲットがレナさんだから。

 レナさんを撃てるわけがない。

 今までは憎しみさえあれば集中できた。レナさんが殺したがるなんてとんでもないやつだと思って撃てた。それがぼくの安心感に繋がっていた。

 でも、いまは?

 レナさんは手錠でボートに繋がれていて、狙って外せばむしろレナさん自身に当ててしまう。だから手錠だけを正確無比に撃ち抜く必要があるわけだけど、それはそんなカンタンにヒトコトで済ませられるようなことじゃない。

 ぼくは素人なんだ。あのおじさんはゴチャゴチャ言っていたけど、それだけはほんとうだ。こういう状況でどうすればいいのか、誰にも習ったことがないんだ。教えてもらったことがないんだ。ぜんぶ、自分で、なんとなくやってきたんだ。それが正しいかどうかなんて、わからないまま、ただレナさんに褒めてほしくて、レナさんにそばにいてほしくて、見捨てられたくなくて、撃ってきただけなんだ。ぼくはレナさんと別れたくなかった。すごいねって言ってほしかった。

 それだけで、よかったのに。


 ボートはいまにも転覆しそうだ。気まぐれな、学校によくいたチャラい連中のからかいみたいに波しぶきがボートを小突く。むしろ波を撃ち殺してやりたいくらいだ。ぼくのレナさんのボートに触るな。薄汚い水め。畜生。全然集中できない。ボート自体が動いているから、ぼくはライフルをその揺れの範囲に収まるように位置を定めて固定する。がっちりと。そしてスコープのクロスがレナさんの手錠に重なる瞬間――果たしてそんな瞬間は訪れるのだろうか――を狙い、撃つ。

 雨と寒さで手がかじかむ。ぼくは震える両手の指を上下の歯で何度も噛んだ。肉を裂かない程度に甘噛みして、お願いだから今だけは震えないでくれとお願いする。言うことを聞かない指は地面にべしべしと叩きつけて無理やり躾けた。それでもわずかに震えが残った。

 頭ではわかってる。どうすればいいか。どんなところがポイントか。

 でも、でも、失敗したら、今度こそレナさんがほんとうに死んでしまう。頭でも、腕でも、胸でも、おなかでも、どこに当ててもレナさんが死んでしまう。あんな寒くて暗くて一人ぼっちの海の上でレナさんが死んでしまう。

 レナさんは優しかった。

 なんにもないぼくに、そんなことないよと言ってくれた。

 ぼくを、この地獄みたいな世界で見つけてくれた。

 レナさんはぼくの女神だった。

 でも、神様はこの惑星にはいなくて、だからレナさんは自分で頑張ることにして、ぼくに手伝って欲しいとお願いしてくれた。

 そうだ。

 神様がいないから、肝心要の時にいつもいないあいつがいないから、ぼくはレナさんと出会えたんだ。

 レナさんに必要としてもらえたんだ。


 ぼくは、


 ぼくは、


 ぼくの大事は、










 ぼくの大事は、レナさんだ。



 ○



 双眼鏡に目を当てていたヤギハラは、それを顔から離した。遅れて届いた、パン、という乾いた音を、この街の住民の誰もが気にしなかった。平和とはそういうものだった。誰かにとっての信念場というのは、別の誰かにとってはどうでもいい今日の1ページでしかないのだ。

 沖のモーターボートの中で、來島怜奈が横倒しに倒れた。

 が、よろよろと起き上がり運転席に潜り込むのが見えた。モーターボートがエンジンを吹かし始め、夜の海へと疾走していく。

 ヤギハラはそれを見送りながら、手を挙げた。小走りに寄ってきたウェイトレスに、ハムとタマゴのサンドイッチとおかわりのコーヒーを注文する。長居して悪いね、と言うといいえ、と微笑む高校生くらいの少女に、ヤギハラは笑って付け加えた。

 今夜は、長居したい気分なんだ、と。

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