第4話 デート
デートしよう、とレナさんが言った。ぼくは動揺した。一瞬で脳のてっぺんまで血液が逆上して、気分が悪くなって目を抑えてしまうほどだった。
レナさんは笑いながらぼくの頭を撫でて、ロキソニンをくれた。ロキソニン。ぼくから痛みを取ってくれる魔法の友達。このこめかみに刺すような、光に似た痛みはなんなんだろう? ぼくは死ぬのだろうか? ぼくは誰にも愛されないまま息絶えて焼かれてしまうんだろうか。こんな頭病のせいで死ぬのはごめんだった。それでもぼくはつらかった。
「どうしたの、レナさん。おかしくなっちゃったの」
「そう、おかしくなっちゃったの」
レナさんはピエロのように小首を傾げた。真っ白な歯並びは持ち主を囲うように整頓された本棚のようだった。
「だからデートいこうよ。たまにはさ、シゴト抜きで」
「シゴト抜きで……」
ぼくはロキソニンを冷水で喉に流し込んだ。安心がぼくの食道を湿らせる。
「ど、どこに行くの。ぼくとデートなんて、女の子はそんなこと言わないんだよ」
「女の子に失礼なことを言わないの。わたしまだオバサンじゃないもん」
「ご、ごめんね。でも、ぼく、びっくりした。ほんとうにびっくりした」
「しのごの言わない」
レナさんはぼくの腕を取って、席を立った。
イタズラっ子のようなその表情に、ぼくは熱射病になりそうだった。恋の熱射病。
これは恋なのだろうか? ぼくはレナさんが好きなんだろうか?
好きってなんだろう?
○
レナさんが腰を曲げて、望遠鏡を覗き込んでいる。高台の公園からは、街がまるっと一望できると隣に立て掛けてある古びた看板に書いてあった。それは誰かが卑猥な落書きを何度も何度も重ね塗りしていて、とても悲しそうだった。
「いい眺め。きみはいつも、こんな景色を見ているんだね」
「い、いつも綺麗じゃないよ。血とか内臓が見えることもあるし」
レナさんはそれには答えなかった。代わりに、
「ねぇ、どうやっていつも、あんな風に綺麗に狙撃できるの?」
「狙撃……」
「まるで魔法みたいにターゲットに命中するんだもん。なにかコツでもあるの?」
「コツって、言われても……」
「隠してないで教えてよ」
「そんな……れ、レナさんもライフルを始めるの?」
「へ? ああ、いや、それは無理、かな。きみみたいに上手になれないもの」
「じゃ、どうして? どうして、そんなつまらないこと聞くの?」
「つまらないかなあ?」
レナさんはスコープから顔を離して、不思議そうにぼくを見た。
「きみは、わたしのお願いを聞いてくれてる。ほかの誰も、わたしのお願いを聞いてくれないの。きみだけなんだよ、わたしのシゴトをやってくれるのは。だから、それはとてもスゴイことなんだよ」
「うん……」
「いつも感謝してる。ほんとうに君がいてくれてよかったって。だから、聞いてみたくなったのさ。魔法のレシピってやつを」
レナさんはときどき、得意げな少年のようにさっと笑う。その笑みがぼくには眩しい。
「いやなら、いいけどさ」
「いやじゃ、ないけど……」
ぼくは恨みがましく、レナさんの顔の前にあるスコープを見た。
このスコープが口を利かないから、狙撃の真実を語り始めないから、ぼくに出番が回ってきてしまった。ぼくは人前でしゃべるのが大の苦手なんだ。ぼくには、語るべき自分なんてないんだ。いつも、真っ裸で舞台に立たされたような気がする。気の利いた服も、ハトが出るシルクハットも、ぼくにはない。ぼくにはなにもないんだ。丸裸のオチンチンをぶら下げて、バカみたいに突っ立ってることしかできない。それがぼくにとっての会話だった。
だから何度もツバを飲み込んでから、どうせ間違えるだけなのにと思いながら、口を開いた。
「……べつに、当ててるわけじゃないんだ」
「当ててない、って?」
「ぼくはべつに当てようとはしてないんだ」
「わーお、弾丸が勝手に当たるって? 君こそ現代の名スナイパーだね」
「ちがう、ちがうんだよレナさん」
口の中に小さな歯車があって、それがぼくが言葉を噛もうとするとガチッと邪魔をする。いくら舌で退けてもその柔らかい歯車はなくならない。まるで卑猥な口遊びみたいにぼくはどもりながら、続ける。
「ぼくは本当に当ててなんかいないんだ。当たったように見えるだけで。ぼくは、ぼくはそれをわかってなきゃいけないんだ。身の程ってやつを。それだけが唯一、ぼくが目標を撃ち抜ける理由なんだ。それだけなんだ。ぼくが考えるいろんなあーだこーだはぜんぶ無駄で、結局は、ライフルをしっかり構えて外すのが怖いと思い続けるしかないんだ。怖いんだ。ぼくは英雄なんかじゃないんだ、レナさん。ぼくはいつか外してしまう。その日が来るのが怖いんだ。でもそれは、絶対にやってくる日なんだよ」
話がまた、レナさんがきっと求めていない方角へ転がった。でもぼくにそれを止めることはできない。「本当のことを語れ」という無理難題に応えれば、どうしたってこうなってしまう。ぼくにとっての真実。ぼくにとっての絶対。それは誰かにとっては失望と幻滅と惨敗の感触でしかない。
レナさんはがっかりしただろうか。
振り返ったレナさんは、太陽に祝福されてとても綺麗だった。綺麗すぎて、それがどんな表情なのかぼくにはわからなかった。美しすぎる絵みたいなものだった。それはぼくを惑わせて、困らせてくる。どうすればいいのかわからなくて、ぼくはまた裸ン坊でいるしかなかった。ぼくはただレナさんがなにか言ってくれるのを待っていた。
レナさんは言った。
「そんな日は、来ないよ」
ぼくにはそれが、嘘だとわかる。
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