第3話 狙撃

 レナさんはいつもマスターキーを持っている。それはどこに忍び込む時も同じで、どんなビルでも、どんな路地でも、どんな倉庫でもレナさんは簡単に鍵を開けてしまう。かといって銀色のハリネズミみたいに鍵束を持っているわけじゃなくて、いつも金色に輝く一本だけを持ち歩いている。それだけでどんな鍵でも開けてしまう。南京錠は頑丈なペンチで壊してしまう。ヴァイスといって、万力と合成した特殊なペンチは噛ませるだけでどんな金属も切断してしまうのだという。だからレナさんはどんなところにだって忍び込めるんだ。レナさんは盗賊なのかもしれない。

 その夜、ぼくたちはいつものように現地集合で、廃病院の前にいた。閉鎖された病院の窓ガラスはところどころ割れていて、ぼくを空虚な目で見返していた。こんなにひどい目に合わされたぼくに、まだなにか用があるの? ……そんなふうに建物が囁いているような気がした。ぼくはとても親近感を覚えて、廃墟にお辞儀をしたくなった。ちょっと失礼するよ、と。


「おまたせ」とレナさんは軽自動車から降りてきて笑顔で手を振ってきた。

 口が裂けても言えないけれど、レナさんのクルマはちょっとダサい。相撲取りを目指しているカブトムシみたいに丸っこくて、お尻を蹴り上げられたみたいに天井が高め。でもそれがカワイイなと思う。それはぼくの秘密の気持ちだ。


「じゃ、いこうか」

「はい、レナさん」


 レナさんはいつものように、スラックスからマスターキーを取り出して病院の玄関の鍵を開けた。嫌がるように軋む扉を抜けてぼくたちは待合室に入った。沈黙の優しい匂いがした。レナさんはいつも提げているボストンバッグから懐中電灯を取り出して行く先を照らした。ぼくにも一本くれる。レナさんのボストンバッグには、ヴァイスペンチやら縄梯子やらの秘密道具がいっぱい詰まっている。ぜんぶを見せてもらったことはまだぼくにもない。それはとっておきのプリンみたいな楽しみとしてぼくの胸の奥に取ってある。


「わあ、暗い。夜の病院って怖いよね。何か出そう」

「大丈夫だよ。ここには悪いものはいないよ」

「ねぇ~、君が言うとシンピョウセイがあって怖いんだってば。やめなさい」

「は、はい。レナさん、ごめんなさい」

「ふふ。いいよ。足元に気をつけて、ついてきて」


 レナさんはおいでおいでをしてぼくを導いてくれる。ぼくは安心してその後ろ姿についていく。レナさんが歩くたびに、短い髪を結った髪束が左右に振れた。レナさんは月みたいに肌が白い。そして月と同じくらい、ぼくが手を触れるには遠い。

 ぼくが意味もなく空き病室から抜き取られ忘れた入院患者のネームプレートを眺めながら歩いていると、レナさんが振り返った。


「君はさ、神様っていると思う?」

「いないと思います」


 いるなら、ぼくはもっと幸福だ。ずっとずっと、幸福だ。

 レナさんは足元のガラスを革靴のつま先で払い除けながら、うんうんと頷く。


「そうだよね。こんな世の中で、神様なんて信じられるわけないよね。もうよく思い出せないもんな、どんな定義だったか」

「テイギ?」

「神様って、どんな説明された? お母さんから」

「そんな話、したことないです」

「そうなんだ、でも、忘れてるだけじゃない?」


 そうだろうか。確かにぼくは忘れっぽい。レナさんはそれを指摘してくれているのかもしれない。


「……なんでもお見通しで、これから起きることをぜんぶ決めてる人。空にいて、いつもぼくらを見ている人」

「あ、そんな感じ。わたしもお母さんからそんなふうに聞かされて育ったな」レナさんは割れた窓から欠けた月を見上げる。

「いるわけないよね、そんな人。いたら気持ち悪いし。だって、ずっと監視されてるわけじゃない? わたしたちがちゃんと自分の決めた筋書き通りに動くかどうか。そんなの、ぶるぶるっ! だよ」


 レナさんは両肩を押さえて「ぶるぶるっ!」と身を震わせた。その拍子にボストンバッグが肩から肘にずり落ちてよろける。ぼくはくすっと笑ってしまった。


「笑ったなあ」

「ごめんなさい! ……つい」

「もう。失礼なやつめ」


 レナさんはまた鍵を難なく開けて、扉をくぐる。ぼくはおとなしくついていく。


「そう、神様なんていない。でも、世の中には神様がいるって嘘をつく人がいる。そして、神様がいないと困るって人たちがいる。宗教って言うんだ」


 ぼくは特に興味がなかった。だから背負ったライフルバッグの位置を少しだけ直して、懐中電灯の照度を意味もなく切り替えた。


「ちゃんと聞きなさい? ……だからね、今夜はその夢を終わらせにいくんだよ。ありもしない夢を、お金で売ってる人たちを成敗するの」

「今夜撃つのは、何人ですか?」

「ん? 皆殺しだよ」レナさんは微笑んだ。

「見えたら全部、殺して」

「わかりました」


 皆殺しは少し大変だ。射撃位置がすぐにズレる。初撃でまとめて何人か抜いた方がラクだろう。銃声が聞こえたら逃げられる。届くまでに状況を整理しなければならない。開けた場所であることを祈るばかりだ。


「プロパンガスボンベがそばにあるから、それを抜いて燃やしてもいいよ。位置のマップ図は現地で渡すね」

「はい」火はぼくの味方だ。


 機械室のようなバックヤードを抜けて、背かごのない危ないタラップを登ると、そこは病院の時計塔だった。歯車がぎっしり詰まった、埃とカビの匂いに包まれた静謐な射撃空間。ぼくはすぐに換気用の窓を開けようとして、建てつけが悪いことにイラついてライフルのストックで窓を叩き壊した。


「こらこら、道具は大切にしなさい」

「いいんです。ぼくの思い通りじゃなければ道具じゃない」


 スコープを覗く。深夜の街はタールに塗れたバースデーケーキのようにポツポツとした光を灯していた。コンビニの中であくびをする店員、こんな時間にジョギングする謎の男、酔っ払って電信柱に嘔吐するサラリーマン、受験勉強のせいか揺れるカーテンの奥でノートにシャープペンシルを走らせる女の子。


「山の方、見える? 麓に公民館みたいな建物があるでしょ」

「見えます」

「体育館みたいなところ。電気がついてる。ここからだと壇上が見える?」

「誰か喋ってます。大勢いるみたいだ」

「そ。その喋ってるハゲを最初に殺して。ドタマに一発、決めちゃって!」

「わかりました。ドタマに一発、決めます」

「グッド。で、どう、ほかの雑魚も抜ける?」

「まず表のプロパンを二撃目に撃ちます。それでその方向には逃げられなくなる。あとは中のやつらが表に出てきますが、駐車場にクルマがいっぱいだ。みんな自分のクルマに逃げ込もうとするでしょう。ほかに避難できそうな建物もそばにはない。小さな掃除用具の倉庫みたいのがありますが、南京錠がかかってます。木製だし、仮に逃げ込めてもこの距離なら中身ごと抜けます。公民館から駐車場まで、たぶん70メートル程度」

「全滅まで、何メートル?」

「半分も走らせません」


 レナさんの返事はなかった。ぼくが不安になって振り返ると、満面の笑みでレナさんが立っていた。ぼくは逆に少し怖くなっておどおどしてしまった。なにかまずいことを言っただろうか。少し調子に乗ってしまったんだろうか。悪いくせだ、ライフルを持つと、なぜかぼくは饒舌になる。いつもはぜんぜん回らない舌がガソリンを入れてスパークプラグを交換したみたいに熱サイクルを催してしまう。気に障っただろうか。ぼくには他人の笑顔の意味が理解できない。いつも、その裏には闇があったから。

 でも、レナさんに闇なんてあるわけがなかった。

 レナさんはそっとぼくに肩を寄せると、ぎゅっと両腕を差し伸べてきた。ハグだ。ぼくはレナさんにハグされながら、一風変わった気道の確保みたいに喉を上向かされて時計塔の木の梁を見上げながら、その暖かさを感じた。ただ、その暖かさの中にいた。

 これがぼくの欲しかったもの。

 欲しかったもののすべて。

 レナさんはそれをくれる。だからぼくはライフルを使う。

 何度も姿勢を調整して、ライフルと自分と射座が一体となる瞬間を探す。スコープの中の悪魔が哄笑する。レナさんが殺したいってことは、ぼくだって殺したいってことだ。心の中が憎しみでいっぱいになる。母さんを思い出す。引き金に指をかける。

 ハゲは簡単に死んだ。

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