第2話 母親
「母さん、昨日、政治家が撃たれて死んだんだって」
「ふうん。ねぇ、そんなことより、あんた、働き口は見つかったの? お母さん、また紹介してあげようか。パート先の人の親戚のコンビニでね、ここからも思ったより近いのよ。自転車なら行けると思うわ」
「そのだれそれって政治家はさ、子供への投資を削減しようとしてたんだって。ひどいよね」
「あんたは、単純作業の方が向いてると思うのよ。コンビニなんて、誰でもやれるでしょう? そこから始めたってぜんぜん恥ずかしいことじゃないわ。お母さんの紹介だから、あんたの病気のことも説明しておくし」
「なんて説明するの」
「最近は自立支援って言って、お薬が安く手に入ったりするんだって。でも、あんたは軽度だから無理かもしれないわね」
「調べたよ。それ、ぼくでも大丈夫だよ」
「そうなの? でも、お母さん忙しいからちょっと手続きしてあげられないわ」
「それ手続きしてくれないから、バカみたいに高い薬代になってるんじゃないか」
「無茶言わないで。お母さんも大変なの。朝からパートに行って犬の散歩して……あんたの世話もあるし」
「ぼくは一人でやれるよ。ぼくの世話なんてしてないじゃないか」
「なに言ってるの、あんたの脱ぎ散らかした服を誰が洗濯してるの?」
「ぼくだよ」
「家だってこんなに散らかして」
「汚したのは母さんだよ」
「一人で大きくなったような顔してもダメよ。あんたはお母さんが育てたんだから。お母さんがいなきゃ何もできない子だったんだからね」
「もう違うよ」
「あんたってほんとう……はあ、お母さん、疲れるわ」
「ねぇ、母さん」
「なに」
「このカレー、おいしくないよ」
「そう。でも、母さんはおいしいわ」
母さんは茶色く錆びた銀のスプーンで、味噌汁のように薄いカレーをすくった。この家では銀は錆びるのだ。ぼくは足が折れて何度もガムテープで補修し直した椅子に腰かけて、我が家のリビングを見回した。足の踏み場もないくらい、ゴミだらけ。周囲の人がぼくんちをなんて言ってるのか知ってる。
きちがい一家のゴミ屋敷。
絵本みたいなフレーズだな、としゃれたことを考えてみる。きちがい一家のゴミ屋敷。どんなエンディングを迎える物語なんだろう。
ひとまずぼくは、カッとなっていつものようにカレーの皿をひっくり返し、それを床に叩きつけた。汚物みたいな汁が顔にかかる。
いつもいつもおいしくないと言ってるのに母さんはまずいカレーを作る。
きっとあてつけなんだ。ほんとうはぼくを責めてるんだ。
ドロドロのカレーが好きだっていつも言ってるのに、カエルの住処でも作ろうとしてるみたいに鍋いっぱいに水を注ぎ込む母さんは何も聞いてくれない。ほとんどルゥが欠片になったお湯にご飯が染み込んでいるだけ。
ぼくはどうしてもそのカレーが赦せない。それはカレーじゃないからだ。ほんとうのカレーはこんなんじゃないからだ。じゃがいもがあって、にんじんが刻まれてて、牛肉が消し炭になったりしていない、口に含んだら幸せを得られるのがカレーなんだ。飲み込むのに苦労するなんて、カレーじゃない。カレーであってほしくない。
ぼくは母さんを突き飛ばして蹴りつけた。母さんはまぁまぁと諦めたように笑っている。まるで三歳児がポカポカと叩いてきてるみたいに。ぼくはそれが頭に来て台所の包丁をまな板に何度も何度も突き刺す。何度も。途中で涙が出たのに、母さんは気づいてくれなかった。ぼくはゴミ屋敷の中で猿のような甲高い悲鳴をあげて(そう、ぼくは悲鳴をあげていた。助けを求めていた)大暴れしたあと、泣き疲れて母さんに手を差し伸べた。母さんはぼくの手を眺めていた。
「お金」とぼくは言った。
「なにに使うの。使う場所なんてないでしょ」
「お金! レナさんとごはん! だから、お金!」
レナさんがお金を出してくれるからって、ぼくがお金を持たずにレナさんと会っていい理由にはならない。ぼくだって、お店にお金を払いたい気持ちくらいある。仕事がないから、働けないから、お金がないからできないだけだ。お金さえあれば、レナさんともっとおいしいものを食べたり、レナさんの欲しいものを買ってあげたりもできるんだ。レナさんはぼくの大切な人なんだ。なによりも誰よりも大事なんだ。
母さんは困ったように笑った。突き飛ばされすぎて、頬が青紫色のアザになったまま取れなくなった。
「この子ったら、またそんな妄想ばかりして……お母さん恥ずかしいわ」
「妄想じゃないよ! レナさんはいるんだ!」
「そんなわけないでしょ。あんたファミレスで独り言をいうのやめなさい。近所の人がみんな見てるのよ。お隣さんにもこないだ言われたわ、いつもぶつぶつうるさいって。悪い癖よ。レナちゃんは引っ越したのよ。いつまでもわがまま言わないの」
「引っ越してなんかない! レナさんはいるんだ! いいから早くお金出せよ!」
「はいはい」ぼくに蹴り転ばされた母さんは面白いくらい軽やかに横倒しになる。体重がもう40キロしかないんだ。
「お金ね、はい、五千円」
「足りないよ!」
「我慢して。パート代が入るのがまだ先なの。犬のエサも買わなきゃいけないし」
「ぼくと犬、どっちが大事なんだよ!」
母さんはため息をついて、やっぱり困ったように笑うのだ。
「バカなこと言わないの。決められるわけないでしょ」
○
部屋の中で、椅子に座って、壁を眺めて、涙を流す。
いつものことだ、ぜんぜん慣れてる。慣れすぎて、どうして泣いてるのか思い出せないくらいだ。
きっとまた母さんがぼくにひどいことを言ったんだろう。
ぼくはぜんぜん気にしてない。ぼくはちっとも覚えてない。なぜなら平気だからだ。なぜならもう慣れてるからだ。
どんどんと壁を何度か蹴って、怒りを鎮める。この胸の奥で、手のように燃える痛みを忘れようとする。
そして、また頑張ろうというファイトが湧いてきた頃、部屋の隅に立てかけてある、これだけはほんとうに母さんに秘密の(そしてきっともう見つけているのに、なにも言おうとしない母さんの)ライフルを見る。
それはピカピカに磨き上げられて、誇らしげだった。
ぼくはきみと違って愛されているんだぞ、とライフルが言っているような気がした。そうだ。きみには愛される資格がある。ぼくはそれを認める。なぜならきみはぼくに存在理由をくれたから。ぼくが必要だとレナさんが言ってくれる原因だから。
だからぼくは椅子から立ち上がって、ライフルを分解して組み立て直す。泣きながら。涙が溢れるたびにレースのウエスで拭いながら。ぼくは誰にも涙を拭いてもらえないのに、ライフルはぼくに涙を拭いてもらえるのだ。羨ましい、とぼくは思った。
そのライフルを、ぼくは天使と呼んでいる。
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