第8話 電話

 いつだって耳を塞げば何も聞こえなくなった。いつだって目を閉じれば暗闇があるだけだった。どんな現実だって怖くなかった。否定してしまえばないのと同じだった。どんな壁も、距離も、拒絶してしまえば存在なんてしなかった。でも、でも、どうやっても、あって欲しいものがそばにないことだけは、どうにもできなかった。今ここになくちゃいけないもの、いけない人、その人がいないことがどうしてもぼくには承認できなかった。そんなことはあっちゃいけなかった。そんな世界は存在しちゃいけなかった。

 なのに、毎日はぼくに降り注いだ。

 ニュースは連続狙撃犯の犯行が止まったと報道するのにも飽きて、違う悲惨で残忍で目を覆いたくなる情報ばかりぼくの顔にぶつけてきた。それを見て母さんが喜んだ。世間にはひどい人がいるもんね、こんなやつら、殺してやればいいんだわ。

 でもぼくは知っている。母さんは社会正義のためなんかじゃなく、ただ死、ただ他人の不幸が好きなだけだと。そのヒビ割れた唇が歪むたび、涙よりも生理的な本性が母さんの顔に浮かぶのだ。そして最近の母さんのお気に入りの話題は、ぼくが家を出なくなったことだ。レナさんのことを口にしなくなったことが、母さんにとっての勝利だった。ぼくは想像上の女がいないことを思い知って打ちひしがれる、哀れでか弱い何もできないバカ息子……それが、母さんがぼくに在って欲しい姿なのだ。違和感のない現実なのだ。だからぼくはまた夕飯を机にひっくり返して、豚のように吠えながら自分の部屋へ駆け上がる。母さんの嬉しそうな「そんなことしたって、レナさんなんていないのよ」というセリフを背に浴びながら。その背に突き飛ばされるように自分の部屋に飛び込んだ時にはもう、ぼくは泣いている。

 悔しい、でも、ぼくにはレナさんを証明できない。

 レナさんはいなくなってしまった。なんでも開く魔法のマスターキーは最後のビルの裏口を開けた時に折れてしまったし、もらったライフルも逃げ惑っているうちに手すりに引っ掛けて落としてしまった。

 あとには何も残らなかった。

 雨でも降ってくれていればよかったのに、家に帰ったときぼくは、少しだけスニーカーを汚した、遠くのコンビニに行ったのと変わらない格好だった。家にすぐパトカーが来てくれればよかった。でもあの赤いパトランプとサイレンはぼくの家のそばを通り過ぎもしなかった。まるで無視するように。存在扱いしないことが、ぼくへの似合いの刑罰だとでも言うかのように。

 ぼくの前から、レナさんは消えた。

 レナさんと一緒にあったぼくの時間も、消えた。

 一日が終わって、部屋が暗くなっていく。ぼくは泣きながら布団を頭からかぶる。何も考えたくない。何も進めたくない。このままじっとしていれば永遠に生きていけるような気がする。時間なんて止められるんだ。ぼくがその気になれば。レナさんのいない瞬間を直視しなければ、布団の外にはレナさんがいるかもしれない。この世界のどこかに、レナさんはいるに違いない。すべてぼくの妄想なんかじゃなかったはずだ。だって、だって……そこで、ぼくはレナさんの笑顔を思い出せないことを思い知る。いつだって、完璧なものはぼやけているんだ。どんなに近くに寄ったって、だめなんだ。

 その音が携帯電話の音だとしばらくぼくは気づかなかった。かけたまま忘れっぱなしになっている目覚まし時計だと思った。だから電話だと気づいたときはびっくりして、心臓が喉から飛び出るほどビクビクしながら通話に出た。

 もしもし。

 大嫌いな、自分の声。

 男の声がした。


『経歴がないというのは困ったもんだった。前科もない。功績もない。そんな人間があれだけの射撃を成功させたと、信じられるやつすらいない。だからずいぶん、時間がかかったよ』

「……誰?」

『おまえだろ? あの連続狙撃犯』

「ち、ちがう。ぼくはなにもやってない」

『じゃ、來島怜奈はおまえとはなんの関係もないわけだ」

「くるしまれいな?」

『おまえをそそのかして八人も殺させた女だよ。知らんとは言えないだろ? 俺が通話を切ったら、一番困るのはおまえだからな』


 その言葉の意味が、冷たい水のようにぼくの喉を通り抜けていった。


「ぼくがやった。全部、ぼくがやった。レナさんは悪くない」

『レナさんね。涙ぐましい庇い立てだが、殺人幇助なんかあの女にとっちゃサ店でコーヒーしばくくらいカンタンなことでね。いまさら言い逃れはできないぜ。確かに悪党だった。でも八人ブッ殺したんだからな。1キロも先から、たった一発で』

「……死んで当然のやつらが死んだんだ。レナさんは悪いやつしか殺さない」

『俺もそう思うよ』男は素直だった。

『來島怜奈はたしかに悪いやつらを選り好みして殺しまくった。赦してやってもいいのかもしれない。で、だ……俺はゆっくり考えた。おまえを探すのに二週間もかかったからな。夜、ぐっすり眠って考えた。睡眠薬をたくさん飲みながら……そしてやっぱり俺は來島怜奈は罪を償うべきだと思った。いや、違うな。罪じゃない。あいつは自分がやったことの、そう、<お返し>を喰らうべきなんだ……』

「……あんたが何を言ってるのか、わからない」

『今すぐ来い』男の声が冷ややかになった。

『場所はわかるだろ、いつもあの女とデートしてた公園だ。携帯忘れんなよ。防水だよな、それ?』

「防水だけど、それがなに?」

『外、雨降ってるぞ』


 カーテンを開けると、しとしとと、嫌な小言みたいな弱い雨が窓を叩き始めたところだった。そういえば、天気予報で夜から雨だと言っていた。


『そこにいけ。何も持たなくていい。手ぶらで、靴だけ履いて飛び出して来い。風邪ひくなよ』

「……レナさんに何かしたら殺してやる」

『腕のいい狙撃手に頭を撃ち抜かれるなら、悪くない。よく狙えよ。じゃあな』


 電話は切れた。

 ぼくはしばらく、スマホを見つめていた。冷たく通話があったことを表示するディスプレイだけが現実だった。雨はどんどん強くなっていった。ぼくは立ち上がった。いつの間にか部屋は真っ暗だった。一階に降りると、母さんに鉢合わせた。ぼくは靴を履いた。母さんは靴紐をほどこうとした。


「なにやってるの、外は雨なのよ。出かけるのなんてよしなさない」

「コンビニに行くだけだよ」ぼくは嘘をついた。「ほんとうにコンビニ」

「コンビニなんてお母さんが行ってきてあげる。なにが欲しいの?」

「コンドーム」


 ぼくは母さんをひるませたくて盲滅法に口走った。母さんの瞳はびくとも動かなかった。


「ま。この子ったらおませな子。そんなのは大人になったら買ってあげるわ」

「母さん、ぼく、大人だよ。もう大人になったんだよ」

「あんたはね、大人になんてならないのよ」母さんがぼくの靴紐を引っ張ろうとした。ぼくは反射的に、母さんを突き飛ばした。


 母さんは下駄箱でひっくり返って、しばらく動かなかった。

 ぼくはそれをきっと冷たく見下ろしていたと思う。

 やがて母さんはケタケタと笑い出した。


「あんたはね、大人になんてならないの。ずっとあたしの子供なの。まったく馬鹿なんだから。そんなこともわからないのね」

「母さん、ぼく、悪いやつを殺したんだ」

「知らないわよそんなこと」

「母さん、ぼく、レナさんを助けにいきたい」

「レナさんなんていないのよ」

「母さん……」


 ぼくは玄関の扉を半分だけ開けながら言った。


「ぼく、狙撃が上手なんだ。レナさんが、すごいね、って褒めてくれたんだ。ぼく、得意なことができたんだよ」


 母さんは笑って言った。


「あんたに、なにができるっていうのよ?」


 ぼくは家を飛び出した。

 母さんの言葉を考えながら。

 雨はどんどん強くなっていく。ぼくのボロボロのスニーカーはあっという間に泥舟になった。でかけに羽織ってきたウインドブレーカーがバタバタとはためく。どこかで雷の音がした。いまは何月なんだろう。ぼくは大学を中退してから、カレンダーを見た覚えがない。いまはいったいいつで、ぼくは何をしようとしているんだろう。顔に水飛沫が強く当たる。喧嘩なんてしたことがない。いつだって一方的に殴られるだけだった。いつだって、ぼくの毎日は拒絶の連続だった。だからぼくからも拒絶した。ずっとそうやって生きてきたんだ。

 レナさんに会うまで。

 高台の公園は、洪水が起きたみたいに泥だらけだった。ぼくは何度か滑りながら、顔も知らない男と、捕まっているはずのレナさんを探した。不思議と胸にはファイトが湧いてきていて、ぼくの脳裏では映画の悪役みたいにレナさんの首を羽交い締めにして人質にするヒゲモジャの男に殴りかかる自分の姿がはっきりと思い浮かんでいた。ぼくは人生で初めて喧嘩をするんだ。レナさんのために。やってやる、ぶん殴ってやるんだ。

 でも、二人はどこにもいなかった。それどころか公園には誰もいなかった。ぼくは息を切らしながらあたりを見回した。ときどき稲光が走って、ぼくの影が長く細く伸びるのが見えた。死体を埋めに来た男の影みたいだった。

 スマホが鳴っているのにだいぶ気づかなかった。空耳だと思って画面を見たら、あの男の番号が表示されていた。


「もしもし」

『おいおい、心配したぞ。クルマにでも轢かれたのかって』

「それよりレナさんはどこ? あんたもいない」

『ん? 俺なら喫茶店にいるよ。コーヒーがまずくてしょうがない』

「ぼくを騙したの?」

『愛しのレナさんを返せって? ああ返してやるさ。欲しければ持っていけ』


 そのセリフはぼくをぞっとさせた。さっきの、自分の影が墓掘り人に見えたイメージがフラッシュバックする。


「こ、殺した……の?」

『は? なに言ってんだ、俺とおまえらを一緒にするな。俺は、違う道を選んだんだよ。足元をよく探してみろって。茂みの中だよ』


 ぼくは言われた通り、子供が飛び出さないようにしっかりと杭を打たれたバリケードが張り巡らされたあたりを手探りに漁った。いつレナさんの死に顔と出くわすかと思うと心臓がバクバクしていた。死に顔ばかりはっきり想像できる。

 人形みたいにつるつるしているんだ。目はほんとうにガラス玉みたいで、人間だった気なんかしない。唇はかさかさしていて、乾燥させた彫刻みたいだ。そしてぼくのことなんかぜんぜん見てくれなくて、虚空をただ見上げている……ぼくはいつの間にか土を掘っていた。そして埋められた空き缶を見つけて悲鳴を上げ、飛び退いたぼくの尻がしたたかに何かを踏んづけた。

 振り返ると、ギターケースのような細長い木箱があった。ぼくはその中にレナさんの腕が入っている気がした。

 ぼくはなぜさっきからレナさんの死ばかり想像するのだろう?

 それはきっと、レナさんを取り戻せないこの状況が、彼女が死んでいるも同然だというぐらい、ぼくにとって耐え難いことだからだ。

 ぼくはケースを開けた。簡単な金属のフックがかかっていただけだった。

 中には、ライフルが入っていた。

 ぼくのライフルだった。

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