第10話

 衣擦れすら響く静寂の中で卒業生代表による答辞を立ちっぱなしで聞いていると、自分の重心の預けどころが分からなくなってきて、頭がぐらぐら揺れているような感覚に陥る。2年生は当事者ではないので、正直退屈してあくびを噛み殺している者の方が多かった。と、斜め前方に見える林田さんが俯いて鼻を啜っているのが見えて、ギョッとして目が覚める。よほど仲の良い先輩でもいたのだろうか。よく見たらちらほら目元を擦ったりハンカチを握りしめたりしている女子がいて、女はそういうものなのかと遺伝子の不思議に思いを馳せる。俺の隣の坊主頭は、ガックリうなだれて半分眠っているというのに。

 俺も卒業証書授与までは起きていたし、しんみりもしていた。飯田先輩の名が呼ばれて、颯爽と壇上に上がる姿を、大きく前後に振られる腕を、その先の手指を、もうこれが最後だと、もう目が合いやしないかとヒヤヒヤしながら盗み見ることもないからと、少しの感慨を胸に、悟りを開いたかのような穏やかな心でじっと見つめた。結局俺は先輩という人間に強烈に憧れ続けてしまったんだろう。こんなに心が揺さぶられる経験は初めてだった。…なんだか頭がおかしくなったみたいに、先輩の手ばっかり見ていた気がする。

 じんわりした余韻に浸りながら次々壇上に上がっていく3年生の背中を見守っていたが、五人過ぎたあたりで、緊張がほどけて頭が緩み始めてしまった。何しろ大半が知らない顔に初めて聞く名前なのだから、興味だって湧きようがない。見たいシーンが終わったドラマの再放送を延々見せられている感じだ。どんどん脳味噌に薄い膜が覆い被さってきて、しんみりした気持ちも眠ってしまい、祝辞なんかはもう上の空だった。やっと答辞までプログラムが進み、ようやくだ、もう直ぐ終わるぞと、そんな安堵感の方が強かった。だから林田さんを始めとする女子の涙は、異世界を覗き込んでしまったような衝撃があった。校歌斉唱が始まって試しに自分も気持ちを作ってみようとはしたものの、自分の卒業式でもないのに大して好きでもない校歌に感情移入できるはずもなく、馬鹿馬鹿しくて早々にやめてしまった。あとは時計を眺めながら閉会の挨拶を聞いて、卒業生を手を叩いて見送る。飯田先輩はいつ通り過ぎていったのか、意外と速い卒業生の足取りの中からは見つけられなかった。

 

 式典が終わると、美化清掃委員最後の仕事だ。ポケットに突っ込んでいた委員腕章を肩につけると、隣の坊主頭が「ひゅーかっけぇ」とニヤニヤするので、「存分に拝め」と応じる。俺たち2年生が指揮をとりつつ、男子はパイプ椅子の片付け、女子は紅白幕を外して床のモップがけを行う。ガシャンガシャンと音を立てて椅子が積まれていく様は、さっきまでここに息も詰まるほどの静寂があったとはとても思えない情緒のないものだった。隅っこで働かない女子が固まって、「もーやばい、泣いちゃったぁ」とか言って笑い合っているのが聞こえる。泣いたあとすぐに笑えるのか。本当に不思議な生き物だ。


 ホームルームが終わって窓の外を見ると、まばらに卒業生があちらこちらに集まって話し込んでいるのが見えた。まだ大半は校舎内にいて、それぞれに別れを惜しんだり、卒業アルバムにメッセージを書き合ったりしているようだ。もう使うこともない委員腕章をどうすればいいか、おそらく委員担当の先生が指示するのを忘れているので、林田さんと相談して職員室に返すことにした。彼女の分の腕章も預かって放課後の廊下を歩いていると、そういえば美化清掃委員初めての仕事の時も、こうやって一人職員室に向かったなと懐かしくなる。半開きになった職員室の扉からは、いつになく楽しげな笑い声が聞こえてくる。あの時は二人で入室した。今回は俺一人だ。

 なんとなく帰り難いような気持ちが湧き上がってきて、いつもより歩調を緩めて廊下を行く。階段を降りると見える等間隔に並んだ下足箱。1番右端のそれは空っぽの空間がちらほら目立ち、あぁ、3年生はもう明日からここには来ないんだなと実感が湧く。簀子の上でスニーカーを掴んで地面に落とすと、傘立ての端っこにポツンと置きっ放しにされたビニール傘が目に入る。耳の奥に勢いよく開く傘の音が響き、汗でぬめる柄の感覚が蘇る。ここにいたって、誰もお前と帰ってくれないのにな。

 グラウンドの側の並木道。今日はなんだか埃っぽい気がする。春特有の空気の煙たさだ。土の匂い、草の匂い、この一年は月に一度必ず地面に近いところで嗅いだ。握って、引き抜いて、脇に放る。少し離れたところで自分と同じ動きをする手を、俺はずっと見ていた。本当に、何が面白くて、あんなに。

 校門が迫ってくる。今更、今になって、俺は「卒業式の日」という空気に飲まれたのだろうか。すっかり感傷的になった思考に薄ら笑いを浮かべる。体育館の隅で掃除をさぼっていた女子の姿が浮かぶ。遺伝子のせいじゃなかったらしいな。俺も今は、

「小野くん!」

ハッとして立ち止まった。誰の声だか今度はすぐに分かった。ゆっくり振り返るとそこには、小走りで手を振りながら駆けてくるあの人が、飯田先輩がいた。さっき道の端に学ラン姿の生徒が固まって談笑していた。あの中に先輩がいたらしい。

「よ!一年間お世話になったな!」

卒業というイベントを終えて少し興奮しているのか、先輩の声が楽しげに跳ねている。卒業おめでとうございます、高専頑張ってください、お元気で、いくらでもこの場にふさわしい言葉はあるはずなのに、喉の奥に石が降ってきて何も出てこない。とにかく笑わないと、落ち着いて。先輩の胸元のボタンを見つめて自分に言い聞かせる。奥歯にぐっと力が入る。先輩が言葉を切ったのが分かった。まずい、気分悪くさせたか。違うんだ、俺は。


 突然頬が温かいもので包まれて、一瞬何が起きたかわからず硬直する。

「どうした、大丈夫か?」

よっぽどひどい顔をしていたらしい。先輩の顔がすぐ近くにあって、心配そうに俺を覗き込んでいた。初めて、正面から、まっすぐ先輩を見た。

ずっとずっと後ろめたい気持ちで追い続けた手が、初めて会った時以来に俺に触れて、じんわりとした熱が両頬から全身に伝わる。ぱっと張り詰めたものが引き裂かれて溢れて飛び出していくのが分かった。唐突に、理解した。ぐるぐる走り回っていたけれど、やっぱりこれはそうだったのだ。

 俺は先輩が好きだ。先輩として、人として、憧れて好きだとか、そんなんじゃなくて、もっと理由なんかなくて、ただ会えたら嬉しくて、触れてみたくて、焦がれて焦がれて追いかけてしまう、そういう好き。


 俺はずっとずっと、この1年間先輩に恋をしていたんだ。

 

「なんだなんだ、誰かにいじめられたか?それとも俺に会えなくなるのが寂しいのか?」

俺が押し黙ったままなので、空気を和ませようとして先輩が茶化すようにニコニコ聞いてくる。

「寂しい、です」

告白だった。俺の、今できる精一杯の告白だ。好きだという気持ちを、全部集めて込めた、人生で1番密度の濃い言葉だった。

 ぶはっと先輩が吹き出すと同時に頰から手が離れて、代わりに頭をワシワシと乱暴に撫で回される。

「なんだお前ー!可愛いやつだなぁ!」

先輩が笑ってくれたのが嬉しくて、自然に俺も笑顔になった。俺の言葉で笑ってくれる先輩が好きだ。初めからずっと好きだった。

 それから先輩と他愛無い話をして、笑い合って、手を振って別れた。先輩が学ランの集団に溶けるまで、もう二度と見ることはないだろうその後ろ姿をじっと見送ってから、俺は校門を出た。

 最後の日に、自分の中の硬く梱包された荷をほどくことができてよかった。重くて押しつぶされると思っていた中身は、思っていたよりずっと軽かった。まっさらな空に風が吹き渡る。隣町くらいまでなら、飛んで行けそうだ。


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春待つ毛虫 きゅうた @kan90

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