第4話

 よく連んでいる友人の1人、藤野はある分野の知識人としてクラス内で密かに名を馳せていた。彼のもたらす情報は未知の魅力に溢れ、いつでも我々の心をときめかせた。そんな彼の家に招待されたのだから、俺たちは密かに胸の内で秘密の階段を上る準備を済ませていた。

 リビングルームでお茶を出してもらい、ひとしきりテレビゲームで盛り上がった後に「次は俺の部屋行こうぜ」と藤野は言った。みんなを自室に案内した後一旦姿を消し再び現れた藤野は、さてお待ちかねとでもいうような顔をしてノートくらいの大きさのタブレット端末を持っていた。どうやら大学生の兄の部屋から拝借してきたらしい。家でゲームするのにしか使わないからパスワード設定なんかはされていないんだと、説明しながら藤野の指はスイスイ動く。藤野以外のみんなが急に静かになり、吸って吐く息すらも、ぐっと密やかなものになった。程なく「あなたは18歳以上ですか?」と白い背景の真ん中に設問が現れたが何の迷いもなく即座に藤野の指は「はい」をタップし、俺たちの中にも誰もそれを咎める者はいなかった。ぱっと切り替わった画面が、肌色とチカチカする文字で埋め尽くされた。

「うわすげ…」

小さな歓声が上がる。

「え、これ大丈夫なの?ウイルスとか」

「個人情報とか漏れない?金取られたりしないの?」

後学のために矢継ぎ早に質問が飛ぶ。この集中力と学習意欲が学校の授業でも発揮できたなら、俺たちはきっと学年首位を競い合えたことだろう。

「大丈夫大丈夫、ちゃんとどういうのがヤバくてどういうのが安全なのかは検証済みだ。これはお試しの宣伝みたいなもんだから金もかからない、こっち押さなければ平気。あ、ここには触れるなよ、面倒なことになるからな。どうする?俺のオススメいっとく?」

未開拓のジャングルを、先住民の案内に従い探検していくような高揚感とどこかに付き纏う不安感、藤野が今まで感じたことのないくらい頼もしく、また大人びて見えた。彼が慣れた手つきで画面をタップすると、女の人の、一瞬で聞いてはいけないと分かる種類の大きな声が部屋に響き渡った。

「やべ」

慌てて藤野の指が俊敏に動き、蚊の鳴くような音量に絞られた画面の中で女の人が悲鳴みたいな声をあげ、 肌色が音を立ててぶつかって揺れ続ける。

 怖い。

 惹かれてやまないのに、初めて見る大人の性行為は、どこか気持ちが悪くて言いようのない恐ろしさがあった。正体を失って頭が馬鹿になった大人が、ただただ同じような動きを繰り返すのがなんだか不気味に思えたのかもしれない。突然に秘密のベールが足元へと引き摺り下ろされ中身が露わになって、興奮と困惑が頭の中で正面衝突してショートしたみたいだった。額と額がくっつくくらいの距離で、俺たちは「おぉ」だとか「はぁ」だとかどこに投げたらいいのかわからない呻きをひたすらタブレットに向かって落とした。

 いやに長く感じた1分半が終わると、気恥ずかしさからかみんな沈黙を作るまいと次々に中身の薄い感想を口にした。そして時間を惜しむように肌色がぎっちり閉じ込められた画像を行ったり来たりして、次に覗く大人の世界を品定めした。

 2番目に動き出した画像は、女の人の体をあまり魅力的とは言えない男の手が延々這いずり回るところから始まった。女の人は嫌がっているのか喜んでいるのか初心者の俺にはよくわからない声をあげ続けて、ぱっと画面が切り替わるとまた先ほどと同じようなトントンと肌色がぶつかり合い続けるものになった。なんだかそこでどっと疲れと頭の膨満感を感じて、「俺もういいわ」と吐き出すと、鼻で息を思い切り吸いながら一人後ろへ下がって、部屋の隅に転がる漫画雑誌をペラペラめくった。

「こっからが本番じゃん。小野にはまだ早かったか?」

「お前こういうのぼんやりしてそうだもんな」

ぼんやりってなんだよ…と思ったものの、みんな俺に構う暇も惜しいようですぐに円陣は閉じて妙な熱気が場を包んだので、反論する気も起きずにざらついたページに手を滑らせる。キャラクターが必死に叫んでるのに台詞がただの文字としてしか頭に認識されない。絵だけをぼんやり目で追うものの、視界の端に見える並んだ頭の向こう側の、藤野の部屋の青いカーテンの方が妙に印象に残った。



 その夜、夢を見た。真っ暗闇の中一人でフカフカのソファに座っていた。ふと目をやると青いカーテンだけが何故かはっきり見えて、なんだ藤野の家にきているのかと安心する。立ち上がろうとして、誰かの手が自分の膝に置かれているのに気付いてドキリとする。でも嫌な感じはしない。俺は立ち上がるのをやめてじっとその手を見つめる。手首より先は暗闇に飲まれていて見えない。でも夢の中の俺はこの手の持ち主を知っているようだった。と、じりじりとその手が太腿を昇り始めた。急に焦りと緊張で体が動かなくなる。何かを期待しているような高揚感が自分の周りの空気を熱くさせた。鼠蹊部に小指がつんと当たったところで、ずるりとその手は内腿を滑り落ちてきた。


あっ


 目が覚めるとすぐに違和感に気が付いて布団を跳ね除けた。下着が生暖かいもので濡れて肌に張り付いている。信じられない。中学生にもなって漏らした?まさか。

 慌てて電気をつけてまず尻の下を確認する。濡れていない。布団は無事だ。そもそもズボンは濡れている気配がない。スボンとパンツを一度に掴んで引っ張る。湿ったパンツの生地に吸収されずに溜まっている部分が照明の光を受けてぬらりと光った。いつも以上に真面目に堅かった先生の声と、教科書のとあるイラストが頭の中で広がる。「性的な夢を見て引き起こされる事が多い夢精というものが…初めての射精を精通と呼び…」ハートと女の人のシルエットが描かれた吹き出しを頭にひっつけて眠る男の子の絵。知識と現状がリンクする。

 正体が分かったものの扱いが未知である液体をティッシュペーパーで拭いながら、俺は激しく動揺していた。精通に衝撃を受けてでは、ない。夢精したことは、こんなものかと至極冷静に人事みたいに受け入れられた。嬉しいとか怖いとかそういう感情も湧かない。それよりも、そんなことよりも、あぁ…。さっき見た夢が俺の心臓を狂ったようにめちゃくちゃに殴打してくる。殴られる度に体が振動で震える。教科書のイラストがまた頭をよぎる。夢の中の誰かの手。妙に生々しくありありと浮かぶ闇の中の手。何故か今になってはっきりと分かる。あの手は。


 飯田先輩の手だった。

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