第7話
プールの水面が久々の雨に騒いでいる。もうすぐ夏休みに入るので、毎日会えなくなる前にクラスメイトと少しでも長くお喋りしていたいのか、帰りのホームルームが終わっても女子の一団がなかなか教室を出ようとせず、日直である俺は鍵をちらつかせながら嫌味にならない程度に自分の存在をアピールせねばならず、鍵の返却が済んで職員室を出る頃にはどっと疲れと眠気が襲ってきていた。これで雨でも止んでいれば少しはラッキーだったが、窓の外を見るまでもなく、雨の匂いは廊下まで染み出していた。こんな日はさっさと帰ってシャワーを浴びて、部屋に篭ってゲームでもしよう。
「小野くん」
下足箱を出て傘を開いたところで、軽快な声で呼ばれて辺りを見回す。聞き覚えはあるが誰の声だか瞬時に判断がつかない。
「こっちこっち。今帰り?」
もう一声投げかけられてやっと声の主の位置が把握できたが、飛び込んできた光景に、驚きと焦りで体が硬直してどっと汗が噴き出た。3年生の下駄箱からひょっこり顔を出していたのは、飯田先輩だった。片手を下足箱についてひょいひょいと足を靴に突っ込むと、流れるように傘立てから掴み上げた傘を、俺の隣に並ぶなりバツンと開いた。
「やっと夏休みくるなー小野くんどっか旅行とかいく?」
会話が始まると同時に先輩の足も動き出すので、信じられないくらい自然に連れ立って帰ることになってしまった。傘を握り直した手から、汗で嫌な音がした。自分でも驚くほどに動揺していた。
始めのうちはしどろもどろだった受けごたえも、段々落ち着いて返せるようになってきた。何より傘のもたらす効果がありがたかった。横に並んでもある程度距離があくし、傘で顔の半分くらいは隠れるので、俺はほとんど柄を持つ先輩の手に向かって話していた。
「そういえば先輩ってあんなに嫌がってたのに、草むしりの時すごく真面目ですよね」
かねてから思っていたことを口にしてみる。
「まぁな!俺高専行きたくて推薦狙ってるからな」
「コウセン?」
突然自分の世界にはなかった単語が出てきて、脳味噌の回転がストップする。
「高等専門学校、五年行くやつ。あのーほら、陸峡公園の手前にあるじゃん。知らない?」
そういえばそんな学校があった気がする。
「俺子供の時から車が好きでさぁ、将来自分で作ってみたいんだよね」
「へぇ…」
よく知らない分野の話のために気の利いたことは何も言えなかったが、内心かなり衝撃を受けていた。この歳でもう将来を見定めて、そのための道を自分で探っているなんて。車だったら俺だって小さい頃大好きだったし、今でも格好いい車のCMを見るとワクワクする。でもそれを将来の夢に絡めることなんて一度もしたことがなかった。先輩の手が急に年上の大きなものに見えた。
「小野くんここ渡る?じゃあ俺こっちだから、またなー」
時間にしたら10分くらいのものだったと思う。交差点のところで先輩と別れると、不思議と充実感に満ちている自分に気がつく。勝手にそわそわと足早になる。なんなら雨に打たれたって今なら気持ちよく感じられそうだった。
「ただいまー」
玄関で靴を脱いでいると、珍しく台所から母さんが顔を出した。
「おかえりーあらあんたなんかいいことあった?」
どきっとした。
「なんで」
「いや、なんか声のトーン高いから」
「別に…」
ぶっきらぼうに答えて洗面所に向かう。いけない。そんなにわかりやすいのか。手を流水に突っ込みながら、鏡に向かってしかめっ面を作ってみる。先輩と喋って帰ったことがそんなに嬉しくて楽しかったのかよお前は。鏡の中の自分は、答えない代わりに瞳をキラキラ興奮させている気がして、見ていられなくて視線を下げた。
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