さようなら、私の青春
――――それは、私の平穏を壊す突然の出来事だった。
「ねー、噂で聞いたんだけどさー
音楽の
「あー、それ私も聞いた。どうなんだろうね?」
「藤代先生、そこそこイケメンだったから、ちょっとショックかも」
「本当だったとして、相手誰なんだろうね?」
そんな噂が、急に学校内で流れ始めた。
きっと誰も信じてないだろう。
いつもの下世話なお喋りの一環だろう。
そんなことはわかっているのに、私は不安になるしかなかった。
*
「先生っ!」
噂が流れた日の放課後、私は不安に耐えきれず、音楽室に駆け込んだ。
こんな噂が流れるんだから、来ちゃダメなことくらいわかっていた。
でも、我慢することなんてできなかった。
「……常磐」
だから、先生だって、私のことは歓迎してなかった。
眉間にしわを寄せ、呆れと寂しさが混じった表情を浮べてた。
「ごめんなさい」
「……わかってるなら、どうして来たんだ?」
先生はいつもより低い声を出す。
その迫力に思わず体を震わせてしまう。
「不安で、怖くて……」
震える声で、私は言い、先生の顔色をうかがう。
「常磐は何が怖いんだ?」
淡々とした声で、淡々とした顔で、先生は聞いてくる。
――――私の知っている先生じゃない。
私の知っている先生は、優しい笑みを浮べてて、声音は柔らかくて。不器用で、気遣いができる大人で。でもどこか寂しそうで。
こんな風に、人に興味なさそうな顔をする人ではなかった。
目の前にいるのは、一体誰なんだろう。
そう思ってしまうほど、先生はいつもの先生じゃなかった。
「それは……」
私が怖いもの。
私が不安を感じる理由。
漠然としていて、言葉になんて到底出来るものでもない。
私の中に渦巻く、恐怖。
その正体は何なんだろうと、先生の問いをそっちのけで自問自答する。
しばらく、沈黙が続いた。
そして、その沈黙を破るのは、やっぱり先生で。
「…………なあ、常磐。別れよう」
なんとなく、そんなことを言われるんだろうなぁとは思っていた。
「どう、して」
でも、口から漏れたのは、思ってもない疑問だった。
理由なんて、わかっている。
こんな噂が流れていて、『別れる』という選択を選ばない人じゃなかった。
先生は、少しだけ悲しそうな顔を浮べ、また無表情に戻って言う。
「好きな人がいるんだよ」
そして、自嘲するような笑みを浮べた。
「知らなかっただろう? お前は遊びだったんだよ」
先生は、突き放したように言ったつもりだったんだろうけど、その声音はどこかに哀愁を隠していた。
悪役をやるなら、ちゃんと悪役をやってください。
これじゃあ、私、何も言えないじゃないですか。
心の中で、皮肉を漏す。
「…………知ってましたよ、そんなこと」
そして、静かに告げる。
笑ってるつもりなんだけど、果たして私はちゃんと笑えてるのだろうか?
え、と先生は声を漏す。
相当驚いているようだから、私はちゃんと笑えてるんだろう。
「一緒にいたのに、気づかれないと思いましたか」
そんなに悲しげな雰囲気をまとわれたら、嫌でも気づく。
「私を通して、先生は誰かを見ているんですよ。先生は無意識なんでしょうけど、ふとした瞬間に、私じゃない誰かを見ている」
例えば、ピアノを弾き終わった時、隣にいる私を見て。
例えば、音楽室のドアを乱暴に開ける私を見て。
例えば、先生の肩に寄りかかっている私を見て。
なんてことのない仕草の中に、先生は私じゃない誰かを見つけ出す。
「先生はきっと、その人のことが好きなんだろうなって思いました。そして、その人に少なくとも、想いを伝えることは出来ないんだなぁって。なんとなく、その人は亡くなってしまったのかな、なんて思いましたけど」
当たってます?、と挑発するように尋ねる。
これが精一杯の私の見栄だ。
私の言葉に、呆然としていた先生だが、そうだよ、と小さく呟いた。
「想いを伝えることなく、その人は逝ってしまったんだ。もうかなり昔のことなのにな。未だに忘れれないんだ」
「私、その人にそんなに似ていますか?」
「似てないよ、似てない」
即答だった。
即答しなくても、とは思うが、そんなに否定されるってことは、本当に一欠片も似てないんだろう。
「だったら、どうして私とその人、重ねたんですか?」
「そんなの俺が聞きたいくらいだ」
「それもそうですね」
わかってるんだったら、先生はこんなことしないだろう。
無意識に私と私じゃない誰かを重ねないだろう。
「強いて言うならな」
「言うなら?」
「常磐が告白してくれた時の、真っ直ぐでひねくれているそんな姿が、俺を動かしたんだと思うよ」
「……意味がわかりません」
――――真っ直ぐで、ひねくれている?
「なあ、常磐。こんなこと、俺が言えたことじゃないんだが、お前……」
先生は真剣な瞳で私を見つめてくる。
その瞳に、私は今日一番の恐怖を感じる。
この先を言わないで。言ってはダメ。聞きたくない。
「俺のこと、好きじゃないだろう」
ああ、私が怖かったのはこれだったんだな、と直感的に思った。
「どう、して……」
「お前が俺のことに気がついたように、俺がお前のことに気がつかないはずがないだろう」
「違うっ! そうじゃなくてっ!」
そうじゃない。そうじゃないんだ。
「私は、ちゃんと先生のことが好きっ!」
だから、告白だってしたし。
先生に会うために、音楽室にだって通った。
「先生のピアノと、先生のまとう雰囲気が好きでっ! ずっと見ていたいほど、好きでっ! 好きな、はずなのにっ!」
どうして。
「どうして、先生の言葉に、納得しちゃう私がいるの……?」
その事実が恐ろしかった。
私は先生のことが、好きなはずだった。
先生の側にいるとほっとして、幸せで、これが恋なんだなって思った。
でも、どこかで『違う』と思っていて。
先生が私を通して、私じゃない誰かを見ていると知った時、悲しさも嫉妬も浮かばなくて。
やっぱりそうだよね、と納得してしまう自分がいて。
怖くて、気づいていないふりをした。
――――ああ、結局、私が先生に求めたものは、『恋』とかいう、相思相愛の感情じゃなかったんだ。
「そこまで、常磐のことを知っているわけじゃないから、正解かどうかはわからないんだけど、俺が思うに」
先生は私の目からこぼれ落ちる涙を、手で拭いながら言った。
「常磐は、大人になりたかったんじゃないのか?」
おとな、そう呟き返すと、うん、と先生は頷いた。
「上手く言えないんだけど、常磐は漠然とした何かをいつも欲している気がした。今のままだと、決して手に入らない、大きなもの。それを早く手に入れたくて、どこか焦っているようにも見えた。
『大人』という表現が正しいのかわからないけど、常磐は今の常磐じゃない、何かになりたかったんじゃないのか?」
「…………そうなのかな」
先生の言葉は、恋人に向けられるというよりは、妹に向けられるようなものだった。
思い返せば、普段の仕草も、年下の愛おしい妹に向けるようなものだったかもしれない。
だから、先生の言葉は私の中に、否応なしに馴染んだ。
「そうなのかも、しれない」
確かに私は、今の私が嫌だった。
ひとりじゃ何もできない、ちっぽけで子供な私が嫌だった。
子供と大人の境界線に立っている、曖昧な私が嫌だった。
だから、寂しそうな雰囲気をまとう、大人な先生に、惹かれたのか。
だって先生の持つそれは、子供じゃ持てるものじゃなかったから。
それに、憧れたというのか。
しかも、無意識のうちに。
「……結局、俺たちは、互いに互いを利用していただけだったんだな」
先生は呆れたように言った。
それが、なんだか馬鹿馬鹿しくて笑えた。
私たちは、恋愛ごっこをしていただけだった。
その事実が可笑しくて、悲しくて、余計に涙がこぼれてる。
「でも私は、私はっ! 先生との時間が、嫌いじゃなかったですっ!」
「俺もだ」
傷を舐め合うようにして、ふたりでいた嘘の恋人の時間は、やっぱり幸福に満ちていた。
恋じゃなくても、そこには確かに愛おしさはあったんだと思う。
そうだったんだと、私は信じることにした。
「…………ねえ、先生。最後に我儘、言っていいですか?」
「なんだ?」
「キス、しましょう。それで全部、終わりにしましょう」
互いに互いの嘘を暴いてしまっては、この先は今までのようにはいかない。
噂も流れているし、安易な行動はできない。
それに多分、私たちが求めているものは違う。
「常磐……」
「証、ですよ。確かに私たちは、間違えていたのかもしれないですけど、この時間を忘れるなんて、そんなことはできません。そんなこと、許しません。だから、刻むんです」
「……それも、そうだな」
私は目を閉じる。目にたまっていた涙がこぼれ落ちる。
そして、柔らかくて温かいものが私の口に当たる。
――――キスの味は、涙の味だった。
名残惜しそうに先生の唇が離れると、私は勿体ぶるように目を開ける。
視界に映るのは、やっぱり悲しそうな顔をした先生。
「先生、今まで、ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとう」
お礼を告げると、私は音楽室を出るために、先生に背を向ける。
やっぱり、心地良い場所を離れるのは心苦しくて、せめてもの抵抗で一歩、一歩、確かめるように出口に向かう。
先生は何も言わなかった。
でも、私がドアに手をかけたとき、「常磐」と静かな声で呼んだ。
「焦らなくて良いんだ。今しかできないことがあるはずなんだから」
最後の最後で、そういうことを言ってしまう先生は、やっぱりずるいと思う。
声になったのか、なってないのか、わからないけど、私は「はい」と頷いた。
先生にはきっと届いてないだろう。
私は先生を見ることなく、音楽室を出た。
今、先生を見てしまえば、名残惜しくなってしまう。
あの幸せな砂の城に戻りたくなってしまう。
恋じゃないけど、でも大切なものだった。
だからこそ、私たちは離れないといけない。
涙が溢れてくる。
どれだけ泣けば気が済むんだ、と思いながらも、今日くらいはいいか、と思う。
さようなら、先生。
私と付き合ってくれてありがとう。
そして、さようなら。
痛くて痛くて、たまらない、私の望んだものたち。
さようなら、私の青春。
Goodbye my blue days.
fin
Goodbye my blue days 聖願心理 @sinri4949
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