閉幕

 目の前の着物を眺めて、何とも言えない気分になる。衣紋掛けにかかるのは銀鼠の着物。

 兄弟子が着ていたもの。兄弟子は銀鼠を好んだから、複数枚持っていたそのうちの一枚。

 兄弟子に関するもので、先の戦禍を潜り抜けたのは、この着物と僕の持つ根多帳のみ。

 

 これを着ていいのか。まずはそこが引っ掛かった。

 これを着たら戻れないのではないか。何がとはうまく言えないけれど。

 これを着ることでなんになるのだろうか。何かが変わるわけではないけれど。

 

 それでも、持ち続けていたのは自分だ。

 それでも、自分はこれを着ることを選んだのだから。

 それで、何が変わるわけではない。兄弟子は兄弟子、自分は自分。

 

 僕は兄弟子のようには語れない。けれど、噺は語らなければ、消えてしまう。

 だから、僕は兄弟子の着物を纏い、兄弟子の噺を語る。

 一つ息を吐いて、着物を手に取る。

 手伝います、とやって来た前座さんに渡して、着るのを手伝ってもらう。

 ふ、と鏡を見れば、いつもと変わらない楽屋の中。

 普段は着ない銀鼠の着物に着られた小柄で、頬にケロイドのあるいつもの男が見返している。

 一瞬、鏡の中で銀鼠の着物を着た小柄で、若紫がかった右目の懐かしい男性が隣に立っている。

 隣を見ても、誰もいない。

 鏡を見れば、その男はくるりと踵を返して、高座へ上がる階段の前に立ち、一度目を閉じ小さく息を吐く。

 鏡から目を離して、僕はくるりと踵を返して、高座へ上がる階段の前に立ち、一度パチンと扇子を鳴らす。

 僕は鶴屋涼丸。いや、今日からは鶴屋涼明。どちらにせよ、吉珀亭無明じゃない。

 けれど今は。アニさんの着物を着て噺を借りて、彼を騙る。

 あとに残すつもりはないといっていたけれど、アニさんの『それ』を残し、伝えることが、僕なりのアニさんへの敬意の示し方だと、信じている。

 自分の出囃子とともに、高座に上がる。座って、深く一礼。一度客席を見てから口角を上げた。


「本日はお越しくださり、本当にありがとうございます。本日を持ちまして、鶴屋涼丸改め、鶴屋涼明となり、真打へと昇進させていただきます。どうぞこれからも御贔屓のほどよろしくお願い申し上げます。こういったおめでたい日ですから、明るい話をやるべきとは思うのですが、以前からやりたいと思いつつ、ずっとお蔵にしていた怪談噺がございまして、今日はそれをやりたいなと思っております。どうぞ、お付き合いくださいませ」 


 私は、色々と動物が好きでして家にも野良猫がいついていたり、出かけた先で野良犬になつかれたりとまぁ、そう言ったことがよくあります。犬と言いますと、墓守をする犬、なんて話を戦争前だったかに、聞いたことがあるんですよ。都内のとある墓地に夜中、肝試しに行くと、眠りを邪魔するなと、襲ってくるなんてことらしいですが。


 不思議と言葉はスラスラと出てきた。アニさんの作った怪談噺。けれど内容は、アニさんと辰道さんの話。これがどこまで本当かは教えてもらっていないけれども、それでもこれは、限りなく事実なのだろう。もう、そんなことを気にする人は誰もいない。

 最後まで語り終えれば拍手と、追い出し太鼓が鳴る。



幻影奇譚、これにてお時間いっぱいにございます。

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幻影奇譚 蘭歌 @Ranka0731

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