語り騙り

 昔から、神様に好かれた、神様に嫁いだ、なんてェ話は良くありますが。明治、大正、昭和と時代を重ねると、そんなのは気の迷いだなんだと、否定されている。否定したところで、そういったことがあると言う事実は変わりはしないんですがねェ。

 明治から大正に変わる頃、明石町のある神社の神主夫婦が子を授かった。既に四人の子供を持つ夫婦にとって五人目の男の子は生まれる前から死んでおりました。生まれて直ぐに棺桶へ入れられたその子は、葬式の最中に息を吹き返し、開いた目の右側は鮮やかな菫色。それを見た親類縁者は、不気味な子供、このまま埋めてしまえと口々にいったが、夫婦は絶対に首を縦にはふらなかった。


 -この子は主祭神様から預かった子供。死して生まれても、息を吹き返したならば、人の子として育てるように言われた子です。


 そう言っていたそうだが、どこまでが本当かは誰にも分かりはしない。けれども、嘘と言うにゃ余りにも、その子供は死にかけすぎる。年に二回は病や怪我で生死の境をさ迷う。体も弱く、何かと巻き込まれやすいうえ、見てくれが不気味となりゃ、まともに学校にも通えず。家に引きこもり気味のうえ、時折虚空と会話をする。そんな子供を家族だけは不気味に思うこともなく、いたって普通に生活していた。

 それが一変したのは、震災の時でございます。幸い、明石町は家屋の倒壊こそあれ、大きな火災は発生しなかった。その神社も境内を家屋が倒壊した人らの避難場所として解放し、炊き出しを行っておりました。その子供も手伝い、配り歩いておりましたが、時折誰もいないところに差し出したり、置いていったり。何をしていると周りが問うと、そこに人がいるのだと、誰もいない場所を指す。

 そうしてはじめて、子供は普通人には見えないものが自分には見えていると気づいたのです。だから、自分の見てくれは不気味なのか。だから、自分はよく死ぬのか。主祭神様に、愛されてしまっているのか。

 気づいてしまえば、その子は何とか生きたいと思うようになった彼は、暫くして両親に家を出たいと申し入れた。神様の側にいるよりも、世俗に染まった方が、良いのではないか。そう思っての提案を、両親は否定せず。以前から、両親もそれを考えていたとか。

 震災の混乱が落ち着き出した頃、彼はとある噺家の元へと養子に出され、そのまま弟子入り。少しでも、神様の寵愛を受けないように。少しでもこの見えてしまう聞こえてしまう状態がなくなるように。

 気づけば稽古量と呑み込みの早さで、トントン拍子に、真打まで進んだがそれも、神様に愛されていたからだろう。見えてしまう聞こえてしまう状態が、なくなることはついぞなく。

 どうやっても無理ならば、見えてしまう聞こえてしまう状態を逆に使って、人助けをしようともしたが、それもうまくはいかない。逆に、悪化させてしまう事さえあった。

 いつからかその男は、何もかもを諦めようとしながら、諦めきれず、ただただ、見聞きしたものを書き散らしている。

 そんな奴はいっその事。

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