第四話


ーなぁなぁ!聞いた!不忍池の噂


ーなんだよそれ。知らねぇな


ーえ、ノブちゃん知らないの!?我らがお山の大将のノブちゃんが!?しらないの!?


ー喧しい!人の事貶しやがってこの野郎!知らねぇもんは知らねぇよ。不忍池がなんだって?


ー知りたい?


ーそりゃ、そんだけ騒がれれば知りてぇよ


 高座の上で、ポンポンと威勢よく与太郎とその友人の会話が繰り広げられる。座っているのは無明一人だが、一人で複数の人物を演じ分け、客にその光景を想像させる。青年は寄席の最後列でそれをぼんやりと眺めていた。

 いつもならば寄席に無明を送って行ったあとは帰るのだが、この中席は掛け持ちであり、その距離が少し遠く、時間も短い。その為、一か所目が終わるまで待って、次の場所へと送るようにしていた。一昨日までの七日間は近くのカフェーや本屋で時間をつぶしていたのだが、さすがに飽きてこうして寄席の最後列に潜り込んでいる。今まで寄席に入っていなかったのは、無明が渋ったからだ。おめェに見られるのは小恥ずかしいとかなんとか。

 今日無明が口演するのは、自作の怪談噺。不忍池に幽霊が出るとの噂を、与太郎にあおられ確認しに行った友人が見たのは、噺家の男。噂になってるから、止したほうがいいぞと助言する。

 サゲとともに頭を下げ、次の演者の出囃子が鳴った。無明が袖へと下がるのを見て、青年もそっと寄席を出て自転車で楽屋口へと回る。


「頼まァ」


「ん」


 少しして、出てきた無明が後ろに乗ると、青年は返事を一つだけして自転車をこぎだす。後ろに横座りしたまま煙管を吹かし、時折やる噺かブツブツ小声でつぶやく無明と、器用に咥え煙草を燻らせながら自転車をこぐ青年の間に会話はない。

 暫くして寄席が見えると、減速した自転車から無明が飛び降りる。そうして、くる、と振り返った。


「あんた、今日はこっちも聞いてきなァ。木戸には言っとくから」


「……どういう風の吹き回しだ?」


「いィだろぉ。自転車置いたら、あたしの名前出して入れて貰いな」


「はいはい」


 いつもならばそのままさっさと楽屋に入っていくのだが、気が向いたのか何なのか。青年にそういいおいて、通り掛けに木戸にも声をかけて行く。

 なんか変なものでも食わせたかな、と思いながら自転車を止めて、いわれた通り木戸に声をかけるとそのまま中へと通される。だいぶ埋まっている座席を見わたし、先ほどと同じように最後列に陣取ると丁度膝代わりの太神楽が始まるところだった。こちらの席で、無明は主任を務める。曲芸を見つつ、なぜ今日に限って自分から見てけと言ったのか、少し考えてみるがきっと気分だろう、ということで落ち着いてしまう。

 太神楽曲芸が終わって、出囃子とともに前座が座布団を出し直し、メクリを変えて客席のざわつきが収まるのを、袖へ下がる少し手前に座って待つ。そうして前座が下がれば、入れ替わりで無明が高座へと上がった。


「もう一席おつきあいをお願いいたします。今日で中席は最終日ですが、皆勤賞のお客様もいらっしゃいますね。……暇なんですか?まぁ、そんなことはどうでもよくて。いや、良くないでしょうけれど。あたくし、こう見えて勉強家でして、上方の噺も少し齧ってみたりはしてるんですよ。それで、実は先日、上方のとあるお師匠さんがこちらに来てまして。これはいい機会だから、と一席稽古をお願いしたんですよ。まぁ、こちらに来たといっても二泊三日程度ですから、少し齧って覚えた噺を聞いてもらって、という感じでの稽古でしたが、いやーやっぱり、ちゃんと稽古つけてもらうって大切ですよ。今日はその噺をやらせてもらおうかと思いまして。怪談噺を期待されてた方には、申し訳ないですけれど、人情噺です。……今のざわつき、もしかしてあたくしには人情噺なんて、って思われました?あたしだって、偶には人情噺とかやりたくなりますもん。上方の噺ですから、向こうの言葉なんですが、あたしは生粋の江戸っ子、深川生まれ深川育ちなんで向こうの言葉を喋ると嘘っぽくなります。なんで、言葉はこっちに直してますが、御聞き苦しければ、平にご容赦を」


ー一人立ちすることを、一本立ちするとも言いますが、あれは花柳界の習慣から来ております。今でこそ時計が普及しておりますが、それがなかった時代。芸者の勘定を線香を立て、それが断ち切れるといくら、と計算しておりました。


 普段のように淡々と語りだすのは、若旦那と芸者の悲恋。

 遊びを知らずに働いていた若旦那は、友人に誘われていった花街で芸者に惚れこみ熱を上げる。とうとう店の金まで手を付けた若旦那は、番頭によって蔵の中に100日押し込められてしまう。蔵住まいから出てくると、芸者から届いた手紙を番頭から渡される。80日目を最後にぱったり途絶えた手紙。

 神社へお参りに行くといって、若旦那が向かった先は芸者のいた店。入れ込んでいた芸者は、手紙が途切れたその日、亡くなっていた。おとなしく蔵住まいをしていたことを悔いた若旦那が仏壇の前で手を合わせると、供えられていた三味線が鳴り出して……。



「さっきの……たち切れ線香?結構好きだな」


「そうかい」


 帰りの自転車をこぎながら、青年がそういえば、無明はあまり興味なさそうに煙管を吹かしながら返事をする。興味なさそうにしていても、なんだかんだ嬉しがっているのは知っているので、それ以上青年は何も言わず。


「あァ、そうだ。お前さん、うちの隣住みな。ちょうど大家さんが部屋開いたって言ってたんで、もう話は通してあっから。必要なもんはあたしが回してやっから、身ィ一つでくりゃァいいよ」


「唐突だな!?まぁ、どうせ拒否権はないんだろ。わかった。通わなくていい分楽にはなるしな」


「そういうこった。まァ、あたしがあんたのヒモってことで」


「それはお断りだ」


「んだよォ」


 暗くなった町にけらけら二人分の笑い声。街燈に照らされて影が一つ。

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