第一話

 深川区石島。

 そのとある場所にある長屋の前に、自転車が止まる。乗ってきた20代前半くらいの青年は、自転車を降りると、様子をうかがうことなく引き戸を開けた。上がり框で毛繕いをしていた三毛猫は、何かを求めるように、じぃっと彼を見つめる。青年も心得ていて、鞄の中に手を突っ込むと、包みを取り出して三毛猫の前に置いた。中身は佃煮にする前の小魚。検分する様に匂いを嗅いでから食べ始める三毛猫を横目に、青年は家の中へと上がり込む。散らばった紙を踏まないように、しながら奥のわずかな隙間に丸々布団の山をひっぺはがした。


「おい、無明。起きろよ。いくら今日が夜席とは言え、もう昼過ぎだぞ」


「うるせェよォ……」


「起きないと、ミケにお前の分の佃煮やっちまうぞ」


「てめェ!それは卑怯だろうがよ!」


「なら顔洗って来いよ」


 ひっぺはがされた布団の下で丸まっていたのは、子供のような見た目の男。無明と呼ばれた彼は、持っていかれた布団の温もりを、少しでも取り返そうとするように、もぞもぞ体をさらに丸める。だが、ミケに佃煮を、と言われた途端跳び起きた。

 むすっとした顔のまま紙の合間、獣道のように空いた場所を縫って顔を洗いに行けば、その間に青年は唯一空いている文机に、持ってきていた佃煮と、台所から前日の残りの冷や飯を置いておく。そうしてから散らばった紙を整理していれば、戻ってきた無明は無言で手を合わせてそれらを掻っ込む。


「かたさなくて良いって言ってんだろ」


「せめて足の踏み場は作れって」


「んだよ。アンタはあたしのカミさんか?押しかけ女房もいい所じゃねェか」


「誰がお前の女房だよ。お断りだ」


「こっちだって願い下げだ」


 朝食(世間では昼食の時間である)を食べたことで頭が動き出したのであろう。無明の口からはポンポンと悪態ともとれる言葉が飛び出し、青年もどこ吹く風でそれを切り返していく。片づけを済ませると、無明は机に向かい、青年が相変わらず散らばった紙を片づける。そのうちに時計が十七時半をさすと、どちらからともなく立ち上がり、無明は隅の風呂敷包みを手に取り、青年はまとめ終えた紙を箱へと放り込む。


「送るか?」


「じゃァ頼む。人形町の末廣亭」


「はいはい。乗った乗った」


 無明が荷台に横座りし、青年が自転車をこぎだす。目的地までは三十分ほどだが、二人の間に会話は特になく。きぃこきぃこと自転車をこぐ青年の後ろで、無明はぼぅ、っと遠くを見ながら口の中でブツブツとつぶやき続ける。

 目的地が近づくと、無明はひょいと身軽に荷台から飛び降りた。


「悪ぃな。助かった。今日はこの後にも一人会あっから」


「はいよ。じゃ、また明日」


「あァ」


 そのままぐるりと反転して、帰っていくのを見送って無明も寄席の楽屋へと向かっていく。楽屋の戸を潜ると、なるべく目立たないように隅のほうへこそこそと進むと、そこに陣取る。無明は弱冠22歳ながら、寄席の席亭推薦で真打へと大抜擢されている。それが周りの不評を買うかもしれないという自覚は、一応持っているので、基本的に同業者といるときは、普段の人を食ったような態度が鳴りを潜めるのである。

 そこで一席終えると、日の暮れた街を、カラコロ下駄を鳴らして歩いていく。自宅を通り越し、その先にある町内の集会場。そこが、無明が一人会を行う場所。

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