将来、トップに立つことを期待されたジュニアフィギュアスケーターたちが集まる榛名学園スケート部。
『氷上のシヴァ』は、そこにやって来た”芝浦当麻”という突出した才能の持ち主の少年を”氷上の神”となぞらえ、コーチを含め、スケート部に所属するメンバーのそれぞれの葛藤や苦悩を卓越した表現力で書き連ねた秀作です。
特に臨場感溢れるフィギュアの滑走シーンと、不意に現れる白昼夢のような幻想の中で語られる若いフィギュアスケーターたちの心の内は、繊細で、苦悩に満ちて、時に読んでいて胸が苦しくなってしまうほどです。
『そのスケーター、異能。正体は、神か悪魔か』
キャッチコピーには、そうありますが、芝浦当麻という存在自体も、とても脆くて神のように誰かの上に君臨するような強さを供えているわけでもないところが、彼の魅力をいっそう引き立てているようにも思いました。
登場人物の中では、私的には唯一、当麻の幻惑に抗った人物と思える霧崎洵と、兄になりたいと心の内で願った双子の妹の霧崎汐音との関係性がとても興味深く、洵と汐音、当麻の3人がこの作品の中で際立って個性が光っていると思いました。
『天上のシヴァ』は、フィギュアスケートというスポーツをモチーフにした小説ですが、純文学のような表現に加え、ファンタジーティストもある読みごたえのある構成で、ぜひ、お薦めしたい作品です。
これは、ただのスポーツ青春小説ではない。
フィギュアスケートとスピードスケート。氷の世界を舞台に繰り広げられる若者達の成長物語として、リアルで美しい表現が、読む物を先へ先へと導いていく。
でも、それだけではなくて‥‥‥
「+α」の核心部分はどこまでも奥深く、それはきっと筆者が、そして読者が探し求めていく物なのだろう。
貴方には、こちらの世界で生きる事を決めた「刀麻」の姿が見えますか?
どんな風に見え、何を感じますか?
とても危うくて消えてしまいそうな「刀麻」を、こちらの世界に留めておく事ができますか?
生まれ変わる事を恐れずに生きられますか? ‥‥‥そんな問いが聞こえてきそう。
「氷上のシヴァ」=「芝浦刀麻」とは、いったい何者なのだろう?
私は、この物語の最初から、最後まで、芝浦刀麻に関わる登場人物から語られる彼自身を追っていた、はずだった。
物語の終盤、まるで最初からいなかったかのように、彼は氷上のシヴァという世界から姿を消す。いや、確かにいたのだ。私も、この世界の住人も、彼の放つ金色の光を追っていたのだから。
楽しかった。その一言に尽きる。作者は空間を描くのがうまいと思った。空間の描写は、演目の曲だったり、スケートのブレードが描く軌道だったり、ジャンプという肉体の躍動が複雑に絡み合って表現されている。
そして、偶像めいた描写というか、確かに芝浦刀麻という存在はいたはずなのに、読み終えたあとに、その影を探してしまう、世界と切り離された読後感が素晴らしかった。
作中で語られる「俺は生まれ変わらなきゃいけないんだ。旧い世界なんか足下で叩き割って新しい世界を創る」という言葉が特に印象的でした。
インド神話の神、シヴァの破壊と創造がうまく組み込まれており、作中の登場人物の多くが、破壊(喪失)と、創造(成長だったり進歩)を経験し、青春ものの作品として、読み応えのある内容でした。
芝浦刀麻という存在を、多様な切り口で見せ、繊細な人間関係を描写してくれた作品。大変、満足です。
最後に、私が生きてこなかった人生を見せてくださりありがとうございました。
取り止めのない感想のようなものになってしまうことをまずご容赦いただきたい。見当違いのことを書いているかもしれないので、まず先に謝罪をいたします。
もしかすると私はこの小説を大変愛しているのかもしれない。だって私は、この小説があったからユーザー登録だけして何もしなかったカクヨムを本格的に始めたのだ。そして、この小説自身と同じぐらい、霧崎洵を偏愛している(キモくてサーセン!)のかもしれない。
この小説は「芝浦刀麻」という一人の人外(と表現したい)と深く関わる5人の人間のドラマが展開されている。
非常に関係性がわかりやすいのが、里紗ちゃんと朝霞先生の章で、前者は芝浦刀麻に純粋に恋をして、後者は彼の指導者になる。理紗ちゃんの刀麻への思慕と彼女の音楽が再び音楽が動き出す瞬間が秀逸で、朝霞先生が闘志を取り戻すシーンは、悪魔と契約したかと思えるほど震えた。
残りの3人はスケーターで、洸一さんはスケーティングが巧みなマネージャー、雷くんは幼馴染でスピードスケーター、洵くんはスケーター未満として現れる。
5人の語り手の中、私が一番好きなのは五章の主人公の洵くんである。4人が皆、自分にとっての「芝浦刀麻の輪郭」を見つける中、洵くんはトーマという一人の人間として捉えている。だから「どうもそうでもないらしい」というところにイラつくし、氷の上で自在に存在する刀麻の在り方を見ると焦りのようなものを感じるのだろう。
5人の語り手で洵くんだけが刀麻の正体を捉えられなかった理由。
私はどうも、書き手である天上さんが、刀麻に並んで欲しかったんじゃないかと思ってしまった。天上さんがそう思っていて欲しい、という私の願望でもあるかもしれない。
スケートについて少し補足すると、スケーターの全員が全員、スケーティングという基礎動作が得意なわけではない。それは世界的な名選手であっても、だ。スルヤ・ボナリーさんは4回転が飛べた(回転不足だけど!)反面、スケーティングに難ありと言われていた。樋口豊さんはジョニー・ウィアーさんの滑りに対し「滑りの質をもっと伸ばさなきゃ」とかつての雑誌で語っていた(出典がパッと出てこなくてすみません)。一流の表現者が一流のフィギュアスケーターではない。逆に、一流のスケーターが一流の表現者にならない場合だってある。
それでいて、五章で洵くんがどう語ったかというと。
「俺は、スケートがこの世の何よりも苦手だ」
ドラマティックにエリザベートを滑った洵くんの剥き出しの本音。世界ジュニア銅メダルという実績を持った彼の、本当の姿。
バレエをやめろお前はスケーティングが苦手なんだからもっと改善しろと岩瀬先生に言われた時の、洵くんの返しがこれである。
私はこの一文が大好きだ。なんだったら洵君を抱きしめたい。五章を読むまで私の推しは洸一さんだったのだが(何となく小塚崇彦さんの滑りを想起させるのですよ、彼)、五章を読んで推しが変わった。
私かよ、と思ったからでもある。
私事で恐縮だが、カクヨムにいて、小説(のようなもの)を書き続けてそれなりに長い時間がたった私だが、正直なことを言うと、小さい時から文章を書くのが苦手で苦手で苦痛で仕方がなかった。日記はかける。だけど、日記なんてね、あれやってこれやって楽しかったで終わるんですよ二行二行!! 手紙もダメ、作文もダメ、そういえば小論文の成績も悪かったな。読書感想文? なにそれ8月29日にやったわ!という感じのダメダメ具合で、理由は「これを読んだ他人がどう想うか」とか「この文章で正解だろうか」とかまぁ色々あるんですが、結論から言うと「他人に読まれる文章と考えると手が止まる」が一番だったかもしれない。
洵君が最初に「派手な衣装を着て滑るなんて嫌だ」というところは、「他人に読まれるのが嫌だ」と思っていたかつての私にすごく似ていた。正直今でも私は、文章を書くという行為が得意とは言い難い。この苦手意識はずっとついてまわる気がしている。
しかし私は、自分のことはさておき、洵君は本物のスケーターになる資格をずっと持っていて、最後の最後で掴むことができたのだと思っている。
転ぶのが怖くない、というのは、最初から氷と対等だった証だから。
天上さんは後書きで「刀麻の回収がまだできていない」と語っていた。ということは、どこかでシヴァと地続きになる作品がある、もしくは、これから予定されているのかもしれない。それは今、2021年3月現在連載をされている「氷の蝶」なのかもしれないし、別のものがあるかもしれない。
地続きになった先か過去かで、別の彼らを見るのが楽しみで仕方がないし、いずれ来るかもしれない「回収」の一端を担うのが、今度こそ洵くんであって欲しい、とも思っている。
読み始めてすぐに、一文一文が研ぎ澄まされ、凝縮されたものであることに気づいた方は多いと思います。
奇をてらった表現や、珍しい語彙を連ねるのではなく、伝えたいことに沿って丁寧に削り出された文章が印象的でした。
また、登場人物たちの繊細な心の動きに、同じ社会のどこかにこんな人たちが生きていそう、というリアリティを感じます。
劣等感や嫉妬、五里霧中の感覚など、十代のころ、あるいは大人になり切れない二十代で感じた気持ちが随所に詰まっていました。
加えて、音楽やスケートに関するディティールにあふれた知識も、世界観を構築するのに大きく貢献しています。
同じ現代を生きる人々が主人公だからこそ、詰めが甘ければすぐに見破られてしまうポイントかもしれませんが、隙なく考証されており、全体の安定感を支えていると感じました。
スピード、フィギュア、ダンス……スケート業界のキーパーソンが、氷上で輝く「シヴァ」に魅せられて、それぞれの道を大きく切り拓いていこうとするアンサンブル・プレイ。登場人物たちの描写は細やかで個性豊かな魅力に溢れ、氷上に立てば文字からイメージが弾け出し、時に美しく時に激しく脳内を駆け巡る。特に、スピードスケートでライバルと対峙するシーンは、スポ根魂溢れた綴りっぷりで読み手の心を熱く燃やしてくれた。
作者さま自身が、作品に対して「完璧」と納得していない部分もあり(あとがき参照)、読み返せば新しい発見があるかもしれない。これからも、パーソナルベストを更新し続けて欲しい。そう願いたいと思わせる素敵な作品☆
※思いっきりネタバレのあるレビューとなりました。未読の方や気になる方は作品を読んでからをオススメいたします。
天上杏さんのツイッターで「氷上のシヴァ」は朝井リョウの「桐島、部活やめるってよ」形式なんだと呟いていたのを見かけたことがありました。
「桐島、部活やめるってよ」はバレー部の部長だった桐島が部活をやめることをきっかけに、同級生5人の日常に変化が起こる、というもの。
「氷上のシヴァ」で当て嵌めると芝浦刀麻という「氷の妖精」や「氷の神」と呼ばれる少年の存在によって、彼の周囲にいる人間の日常に変化が起こる、物語と言うことができます。
ちなみに、「桐島、部活やめるってよ」の桐島について、社会学者の大澤真幸が面白いことを書いています。少し引用させてください。
「桐島は、部活をやめただけではない。その日以降、学校にも現れない。映画では誰もが強烈に、桐島の帰還を望んでいる。
中略
映画においては、どうして桐島はあれほど強烈に待たれているのか? 桐島の存在が、彼ら、他の生徒たちが「救済されうること」を保証しているからである。どこからの救済か。もちろん、学校に象徴される世界の閉塞からの救済(解放)である。」
という大澤真幸の文章を前提に「氷上のシヴァ」を考えてみると、芝浦刀麻の呼ばれ方の一つ「氷の神」が個人的にしっくりときます。
「氷上のシヴァ」は芝浦刀麻という神様に対して、供物を捧げるような物語だったと思います。
神様に何を望むのかは、その人の自由ではありますが、信仰の先にあるのは「世界の閉塞からの救済(解放)」とも受け取れる為、桐島=芝浦刀麻と思って読み進めました。
ただ、最後の登場人物、霧崎洵だけが、この供物を捧げるような物語構造から抜け出し、一人の神様として芝浦刀麻と渡り合おうとします。
それ故に霧崎洵の目を通して芝浦刀麻を見ると少し不気味で、最後の章はどこからが現実で、どこまでが非現実なのか、を押し測るのが難しくなります。
神様同士の物語となってしまう、そんな印象です。
個人的には第一章の山崎理紗が好きだったのですが、最後の霧崎洵の章に来ると、彼女は信仰に取り憑かれてしまったようになっていて、ぞくっとしました。
「桐島、部活やめるってよ」の桐島は、その存在によって他の生徒たちを救済する物語になっているのだけれど、「氷上のシヴァ」の芝浦刀麻は他者を救済できる彼(神様)そのものが、もっとも救済を求めている、という構造になっています。
そして、神様を救えるのは神様しかいない。
「氷上のシヴァ」の最後にある「翌日読んでもらいたい、ちっともささやかじゃない後書き」を読むと、「私はまだ刀麻の回収に成功していない」と書かれています。
物語のラストの霧崎洵と芝浦刀麻のやり取りや、シーンは美しくさえありますが、救われたのは確かに刀麻というよりは、洵の方でした。
そういう意味では芝浦刀麻は「氷上のシヴァ」に漂い続けるのか、他の作品で回収されるのか、今後注目したいと思います。
最後に天上杏さん、長々としたレビュー申し訳ありません。
もしかすると、まったく見当違いなことを書いているかも知れません。
生暖かい目で読んでいただければ幸いです。
まだ作品を読んでいる途中でのレビューです。
ただ、誰かを好きになったとき、想いが心に閉じ込められず言葉として溢れて告白してしまうように。
この作品に対する、様々な言葉を表現したくて堪らなくなったので、レビューさせて頂きます。
私は数年間ですが、かつてスピードスケートをやっていました。
本作品はフィギュアスケートをメインに話が進みます。
作者さんはスケーターではないとの事ですが“エッジの右、左を使う、エッジの点に乗る”などの表現に代表されるように、私がスケートをやっていた当時を思い出す程にスケートに対する表現がリアルです。
まるで自分がスケート靴を履き、氷を滑り、削る音が聞こえてくる程に。
これは映像では決して表現出来ません。
なぜなら映像で表現した場合、なんの変哲もないフィギュアスケートのワンシーンになってしまうからです。それでは「凄いジャンプだね」「高い得点」だけの感想で終わってしまう。
活字でフィギュアスケートを表現する事で、氷という気まぐれで残酷な無機物との対話を試みるスケーターの心理が見えてくる。
なぜその「曲」を選ぶのか?
どの「曲」で滑りたいのか。
フィギュアスケートと「音楽」の繋がりも私は本作品で知りました。
時にファンタジー要素も散りばめられ、フィギュアスケートを知らない私でもぐいぐい惹き込まれ読んでいます。
ここまで緻密に描かれたフィギュアスケートの作品を、私は他に知りません。
天才よりも異才という表現がふさわしい高校生が一人います。
彼は、ただその場にいるだけで、関係者たちの心を高揚させることもあれば、惑わせることもあるようです。なにやら秘密もあるらしく、どこかファンタジーの魔法みたいな効力を発揮することすらあります。
そんな彼を考察するように、複数の人物の一人称視点が描かれていきます。
作曲家の女子高生が、新しい才能に目覚めていく過程にも、彼は影響を及ぼしました。
かつては同じフィギュアの世界にいて、怪我によって挫折を味わった選手にも、彼は再生のきっかけを与えることになります。
いくつかのマイナス条件が重なったことによって、メンタル面を失調し、フィギュアの世界から退場してしまった大人の女性にも、彼は関わっていくことになります。
過去である中学時代の話になっても、彼は同期の仲間たちにあがめられていて、また行動パターンがつかみにくい人物として見られていました。
そしてついに、最大のライバルであろう、努力によってのし上がった選手の視点から、彼を見つめることになります。
この物語を読み始めたときは、てっきり少女漫画風味の「ステキなカレシの手助けにより、最高の曲を書き上げたわたし」の筋書に沿っていくのかと思ったのですが、一章の終わりに近づくほどに不穏な雰囲気が流れ始めて、ついには「これは特定の筋書に沿った物語ではなく、なにか異質な物語だ」と気づくことになります。
展開の異質さに驚いていると二章が始まりまして、一章にも登場したとあるキャラの視点から、異才である彼に触れることになっていきます。
この時点で読者は気づくわけです。これは複数の登場人物の視点から、異才が何者なのかを読み解いていく一種のミステリーなんだと。手法はビジュアルノベルに近いはず。
そうやって時間軸もバラバラな物語を読み進めていくうちに、おそらく読者なりの異才の見え方みたいなものがつかめてくるんだと思います。
物語の内容に関しては、これぐらいにして、じゃあ作者の技量はどうなのかといえば、かなり高いです。内面描写を通した強烈な演出と、異才によって振り回される視点人物の葛藤を、綺麗に混ぜることによって、ぐいぐい先に読み進ませる筆力があります。とくに各章の締めあたりの熱量は必読ですよ。
このレビューを書いた時点では、まだ完結していませんが、今から読み始めて最新話に追いつくことをおすすめします。きっとあなたも、作者の技量によって、ページを読み進めていく手が止まらなくなりますよ。