最終楽章 発展を恐れぬ音が聴こえる

 ラルムは左耳に優しい風を感じて、颯爽さっそうと歩いていた。


「あんまり短くすると、風邪をひいてしまいそう」

 と、母が躊躇ためらっただけ長めに残っているが、

 ラルムは新しいコーディネートを気に入った。


 ともすると、まだ女の子に間違われそうな姿だが、

 強い心で母に寄り添う男の子である。


「男の子だから強いというわけでは、ないのでしょうけれど」


 母は仕事復帰をする手を休めず、つぶやいた。

 一年間、使われることのなかったグランドピアノを磨き上げる。

 ピアノの鍵を宝石箱に戻すと、其処そこには思いに思って手に入れた、

 オーダーメイドの耳朶じだがある。


「創世記では、アダムの肋骨ろっこつからイヴが生まれたなんて語られるけれど」


 肋骨ろっこつから耳朶じだを作ることができるなど、想像だにしなかった。

 息子の左耳には血がかよっている。


 グランドピアノは心のように開放したまま。

 ピアノの鍵と模型の耳朶みみが母の宝石箱の中、

 幾重にもガーゼに包まれて永遠の夢を見る。


 ピアノ教室の再開。母は息子に励まされ、新規生徒を迎え入れる。

 母と並んで、失語症の少女を迎えたラルムは、思わず名を呼んだ。


「たからちゃん」


 奥様と母は驚いていた。

 ラルムには、少女の名前を伝えていなかったのだから。


「良かった。此処ここに、存在いたんだね」


 少女の花唇くちびる微笑ほほえみが戻る。彼女の名は、たから。


「一緒にピアノを弾いて遊ぼう。たからちゃんから、どうぞ」


 少女は少年が勧める椅子に座り、おりを流すようなきよい水の旋律を奏した。

 それは、ラルムの生と死が交叉まじわるリズムを刻んでいた日々に、

 御人形が好んで弾いていた旋律。


『ふたつのアラベスク』より『アラベスク第一番』を弾き終えた少女に、

 ラルムも母も奥様も、あたたかい拍手を贈った。

 彼女のピアノは素晴らしかった。

 話せない分、音が饒舌に気持ちを叫ぶようなピアノだ。


「たからちゃん。綺麗なのに痛いピアノでした。これは褒め言葉。

 たからちゃんの音には忘れられない、いいえ、

 忘れてはいけない棘が刺さったままみたい」


 その棘を無理に引き抜くと、この子は壊れてしまうだろう。

 彼女が味わった痛みごと、受け入れてあげなければ。


 母はピアノ講師として話しているのではない。

 架空の娘に語るように、たからに話した。


 たからの瞳から、自分に刺さった棘を押し流すようなラルムが伝う。

 彼女は御人形ではない。感情を持ち生きている、女の子だ。


 *:..。o♬*゚・*:..。o♬*゚・*:..。o♬*


 明るくて人が沢山いる場所が苦手な、こどもだった。

 しかし数年後、幼少時代の苦手を克服したラルムは、

 たからと共に、母が主催するピアノ発表会の舞台に立つ。


 たからは失語症であった過去が信じられないほど、表情豊かで棘の無い

『アラベスク第一番』で語り掛ける。

 ラルムは『こどもの領分』から自分を覚醒めざめさせた第三番、

『人形へのセレナード』を、やわらかいガーゼに包んだタッチで奏する。

 どちらも相手を想う、あたたかいホ長調。それは『幸福の調べ』だ。


 発表会が終わった後も、ふたりは連弾するが如く支え合って、

 音で交流まじわる日々を送った。

 彼女が穏やかでいられるよう、彼が穏やかでいられるよう、紡がれる旋律。


 強くて末嫩うつくしい青年たちは、心に『こどもの領分』を大切に仕舞い、

 ひそやかに磨き続ける。


 音楽大学を卒業後、ふたりは母のピアノ教室を継いだ。


 母は現役を引退して、おとなの生徒の皆様と、不思議に若々しい両親と、

 アフタヌーンティーを楽しむ。

 年齢不詳の奥様たちは、人生を豊かに過ごすためのピアノを習いに来ている。


「たからもの。おかあさんはね、そんな存在が増えて嬉しいのよ」

「私も嬉しい。そして、幸せなのよ。ありがとう」


 一度は言葉を失った奥様の娘が、会話している。

 たからの瞳は冷え冷えとした御人形の、それではない。

 生きた女性の冴え冴えとした羽包ぬくもりで、家族を見守っている。


 ふたりの血を引く五歳の少年が、白百合に病むことの無い薔薇園に遊んでいた。


「紅い薔薇の名は、ノクターン。

 白い薔薇の名は、フレデリック・ショパンだよ。

 僕は将来、ショパンに成るんだ」


 彼は将来、薔薇博士を超越した末、

 ショパンという名の白い薔薇に成りたいらしい。


 こどもは皆、イリュージョニスト。

 あらぬ方向に伸びる幻想のつるを切るような真似を、両親は好まない。


「楽しみだ。綺麗なショパンが咲くのだろうね」

 ラルムが、こどもの夢に賛同する。


「さぁ、おやつにしましょう。今日は、薔薇の形に焼き上げたマドレーヌよ」

 たからが、こどもを薔薇の滋養に充ちたテーブルへ誘う。


 白い薔薇の咲くバルコニーがあった。

 喧騒けんそうとは程遠いにぎわいがあった。

 信じられない平穏があった。


 クレッシェンドしていく幸福の絵は、

 日々、自由なつるを伸ばし、羽包はぐくまれ続けている。



              La Finおわり

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

人形への小夜曲 宵澤ひいな @yoizawa28-15

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ