第十四楽章 メタモルフォシス
「長い夢だったのかな。だけど、夢に思えない。
ピアノを弾く御人形、たからちゃんが『こどもの領分』を弾いたんだ。
おかあさんはメンテナンスをしていたよ。ねぇ、眼鏡を掛けてみてよ」
「何を言い出すの?
おかあさんは視力、両目とも1.5よ。眼鏡なんて持っていないわ」
母はパンケーキを焼き、ラルムは焼き立てにシロップを染ませて、
食べながら話している。
「おかあさんは、長い髪をひとつに
パフュームキャンドルに
その
母は、派遣先であった洋菓子工房にて、製造工程に従事していた。
それを見透かされた気がして動揺する。
「僕は来週から学校に復帰するんだ」
二の句が継げない母に、ラルムが宣言した。
外の世界を恐れる気持ちは、もう無い。
「おかあさんのピアノ教室は、いつ再開するの?」
これからは私が、この子を頼りにするのかもしれない。
母が、そう思うほどに、十四歳の息子の表情は穏やかに、おとなびて見えた。
「一年も休業して、生徒さんたちには心配を掛けているわね。
教室を再開しようかしら。新規生徒さんの御依頼もある。
だけど、迷っているのよ」
「どうして迷うの?」
母は一旦、
「手編みの帽子をくださった奥様を、憶えている?」
「忘れるわけないよ」
ラルムは贈られた手編みの帽子を被って、お茶会を楽しんでいたころに見た、
「奥様の娘さん、お気の毒に失語症なのですって。言葉を話せないらしいの」
「話せないの? まるで人形じゃないか。どうして?」
「コトのハに原因が、あるらしいの」
「分かるよ。きっと、心無い言葉に傷付けられたんだね。
勝手に傷付くほうが悪い。そんなふうに心無い、
コトのハしか吐けない人たちを知っている」
ラルムは、気性の荒い兄弟と、裁く父と、無関心な母の待つ場所に居た日の記憶を起こす。
「イヤーマフを奪われるとね、途端に、この世界は悪意に満ちて
母の
それ以上の羅列を伏せて、少女を想い見る言葉に変える。
「話せないことは辛いよね。
そんな状態が続いたら、
感情の行き場所が無くなる。閉じ
どうして僕にだけ片耳が無いの? 神様が付け忘れたのかな?
言わなかったラルムの強さと優しさ。その裏には苦しみを
片耳が無い。そんなふうに生んだのは私。ごめんなさい。
思いを口に出さなかった母も、また同じ。
親子は標本箱に行儀良く並んでいた模型に過ぎなかった。
今こそ殻を
「気付いている?
おかあさんは、人形だった僕の眠りを
『人形への
そして左耳が再生した。僕は
奥様の娘さんも、もう一度、生まれたらいいんだよ」
もう一度、生まれたらいい。
そのとおりだと、母は想う。
「言葉は話せない。でも時々、歌うことは、できるのですって。
ラルムちゃんと同い年の、ピアノを嗜むお嬢さんで、
ピアノを弾くことによってコトのハが戻る。
そんな期待が持てる状態らしいの。
だから、彼女を補助するリハビリ的なレッスンになる」
母の心が開く。苦しみを
「おかあさん、そんなレッスンをしたことがないし、自信が無いわ。
もし、症状が好転しなかったら、彼女の心を
色々に考えると怖いのよ」
母の苦渋を息子が一掃する。
「大丈夫だよ。
お母さんのコトのハとピアノの音には、心の再生を促す効果がある。
僕が保証するよ」
ラルムは、母が作ったパンケーキを心ゆくまで食べた。
唇に付いたシロップを拭って、バルコニーに目を転じる。
「あのバルコニーで、イヤーマフを付けてもらったね。
もう隠しておく必要ないんだ。前下がりボブに少し飽きちゃったよ。
おかあさん、新しい僕をコーディネートしてくれない?」
*:..。o♬*゚・*:..。o♬*゚・*:..。o♬*
こどもは、おとなを慕って育つことを
何かを守れるほどに強い生命を希求する。
それは、こども故の、真っ直ぐな故の、純粋が故の、透明な希求である。
最終楽章
『発展を恐れぬ音が聴こえる』に、つづく
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