第十三楽章 未来に続く扉

 母は待っている。ラルムが目覚める日を信じて、近傍そばに居る。

 病室をおとなうのは、兄ではなく両親だ。ラルムから見れば祖父母である。

 年金暮らしの老夫婦は幸いにも、健康と暇と金銭を持て余していた。


 年齢を重ねた今となっては、過去の痼疾わだかまりなど綺麗にほどけている。

 正体不明の世間と言う名の大多数が、不幸だと決め付ける結婚をした娘を、

 責める気持ちも不憫ふびんに思う気持ちも無い。


「最初から、私たちを頼って欲しかったよ」


 昼下ひるさがりの個室は、奇妙なほど静かだった。

 老夫婦と娘の心の声が、空気に融ける。


「にいさんの言葉が頭から離れない。

 余命の短いピアノ講師と結婚なんかしたから、こんな子が生まれたんだ。

 おとうさんと、おかあさんが、御膳立てした相手を選ばなかった、おまえは

 親不孝だって」


「そんなこと、ありましたかね。忘れてしまいました。ねぇ、あなた」

「束の間の幸福の結晶がラルムくんじゃないのかい? 親孝行だよ、この子は」


 老夫婦は娘と孫を、心から羽包はぐくんでいる。


「親孝行。そんなふうに思ってくれるの?」


「当たり前じゃないか。きみたちが此処ここに生きていてくれる」

「そうよ。親より先に逝かないで。覚悟してくださいね。

 私たちは、きっと長生きしますよ」


 老夫婦に交互に抱き寄せられ、母は久し振りに娘に成って甘えた。

 かたくなに強がって保持していた心が融けて、新たに再生するような時間。

 その再生はラルムに伝わる。


 自らの弱さを認めた母は、以前よりも強く成っていた。

 寝台に眠る息子に音楽を。


「ラルムちゃんと私が大好きな音よ」


 母は音楽のイヤホンを、息子の耳の空洞にめた。

 ドビュッシーの『こどもの領分』だ。

 曲は、ゆったりとした第二曲『象の子守歌』から、

 第三曲『人形へのセレナード』へ。


『セレナード』は、日本語では『セレナーデ』もしくは『小夜曲さよきょく』と呼ばれることもある。仏蘭西フランス人のドビュッシーが記した楽譜のタイトルは、母国語の発音どおりの『人形へのセレナード』で、それは単品で先駆けて出版されて、

 

 三歳の愛嬢・シュシュに贈られた。

 十三歳のラルムは人形のように眠っていた。

 実際、人形のように綺麗な顔をしていた。


「おかあさんと、亡くなられたおとうさんの、良いところ取りの可愛い子だ」

「そうよねぇ。おとうさんは原因不明の『白百合の病』にかかられていて、

 還暦に近いのに青年にしか見えない、不思議に麗しい人でした」


 この世界で僅か数例を見るだけの遺伝性の奇病『白百合の病』を、ラルムの父は、成人してから発症した。身体を細胞単位で眠らせる病。花壜カビンに活けられた花のように、寿命は短いはずだ。しかし、ラルムの父は長い眠りの時間を生きながら、奇跡的に子孫を残して去った。


 ラルムが父の遺伝を引き継ぐ可能性は高く、この先、何が起こるか分からない。

 ただ、今は穏やかに、イヤホンからこぼれるかすかなドビュッシーを聴いている。

 水に落ちた花片はなびらふるえるように、息子のまつげふるえるのを、母は見逃さない。


「ラルムちゃん、聴こえるでしょう? 

 何も怖がることはない。

 美しい世界が存在する。

 を開けて頂戴ちょうだい


 その音を受けて、母と祖父母が羽包はぐくむ中、

 ラルムは三十日にわたる眠りから、覚醒めざめた。


 長いまつげそろった双眸ひとみ石瑛珠すいしょうめたようで、

 壊れてしまいそうに見えて、そのじつ罅割ひびわれない強い生命ひかりたたえていた。


 *:..。o♬*゚・*:..。o♬*゚・*:..。o♬*


 数ヶ月後、ラルムはかえりたいとのぞんでいた場所に居た。

 母がピアノ教室を開く家。

 レッスン室もキッチンもバルコニーも、すべてが懐かしい。


「おかあさん、僕、知らないあいだに大きくなったみたいだ」


 大好きな家を歩き回り、鍵盤に指をひろげた少年が言った。


「おかあさんと同じ背の高さね。もう、ラルムちゃんなんて呼んじゃ失礼かな」

「失礼じゃない。僕、この名前が好きだよ」


 小窓から、そよぐ風に木綿のカーテンと、ラルムの茶色い髪が揺れた。

 少年の左耳には、形の良い耳朶じだがある。

 それは、彼自身の軟骨から生成された、右耳と同じ質感の耳朶じだ


「お手持ちの義耳みみ模型モデルに、ラルムくんの胸から肋軟骨ろくなんこつフレームを作成できます。

 人工素材ではない、自分の軟骨を使うのです。

 成人してからでは、軟骨が固くなってしまいます。

 手術されるのであれば、早いほうが良いでしょう」


 ラルムは、医師の勧める形成手術を受けた。


 技師が作成したシリコン製の左耳は、

 模型としての役目を果たして、

 母の宝石箱の中に眠っている。



 第十四楽章『メタモルフォシス』に、

              つづく

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