第十二楽章 閉じ込められて標本化する

 の世界は変遷かわりゆく。


 此処ここは現実世界。内なる空間とつながらないの舞台に、

 それなりに対応する兄弟がそろって、朝食の席に着いていた。

 バターとジャムをこってりと塗り付けたトーストは、

 まるで憎しみを塗り付けられたかのような不快な色をしているが、

 まったく意に介さない。


 こどもなりのストレスにかじり付く。

 トーストとベーコンエッグに味は無い。

 鳴り響くアラームに叩き起こされる、お決まりの朝に疑問点は無かったが、

 兄弟は久々に、ラルムが存在した日々を思い出した。


「兄ちゃん、半年間だけ一緒に暮らした兄弟のこと、憶えている?」

「うん。ラルムだろう」

「あの日以来、意識不明のままだ。僕たちのせいじゃないよね」

「変なこと言うなよ。俺たちは、何もしちゃいないんだ」

「そうだよね」


 *:..。o♬*゚・*:..。o♬*゚・*:..。o♬*


 医学は、意識の無い人間を植物のように管理して、生かし続けることができる。


 母とラルムは、ひと月前に、雑木林の奥で倒れているところを、

 或るひとりの技師に発見された。


 母は衰弱していたものの、足の捻挫ねんざだけで早々と回復したが、

 息子は打ちどころが悪かったのだろうか。

 発見から三十日、謎の眠りから目覚めない。


 母は、あきらめずに毎日、話し掛けている。


「ラルムちゃんに良い報告しらせよ。

 凄腕の技師さんに、お願いしていた、お耳が出来上がったのよ」


 息子の顔の横の空洞に、仮の耳朶じだをあてがう。引き寄せられるようにまる。


「ぴったりだわ。ラルムちゃんも、お耳が付いた顔を見たいでしょう? 

 そろそろ目覚めてくれないかな」


 母は半年前の行動を悔いていた。未来をうれえるあまり、

 透明感に充ちていた日々を不透明に塗りつぶしてしまった。


 ピアノ講師で得られる収入は、親子ふたりが生活していくには充分で、

 こどもに耳朶じだの手術を受けさせるには不充分だった。

 母は、更なる未来、必要になるであろう高等な教育への出資も同時に考え、

 ひとり重責を抱え込んだ。


 兄を頼らずとも不足を補う存在は、あったはずだ。

 たとえば健在の両親、教室に集う有閑マダムたち。

 しかし母は、自分の弱みを愛する人たちに見せることを良しとしなかった。


 彼女は優しく、強がりだ。

 親子の問題は私が、責任を持って解決しなければ。そう思い込んでいた。


 ピアノ講師を休業した。兄に頭を下げて息子を預け、給金の良い仕事を選ぶ。

 半年間、遠方に住み込んで働く派遣社員として、

 慣れない土地で、慣れない仕事をこなす厳しい日々。


 あえて優しい世界と連絡を取ることは、しなかった。

 端末の電源を切り、電話もメールも受信できない状況に追い込んで耐える。


 彼女は優しく、脆かった。

 折れそうな心身の均衡を何とか保ちながら、半年間の業務を満了した後、兄の家に預けた息子を迎えに行く。その場で、ラルムが学校帰りに行方不明になり目下、捜索中だと知らされる。


「ごめんなさい。

 あなたのため。はたして、そうだったのかしら」


 母は、イヤーマフを装着して明るく振る舞っていたラルムの、

 従順で愛らしい姿を見守るほどに、心苦しさをつのらせていた。


 片方の耳朶じだが無い。

 片方の親が居ない。

 そんな環境を哀しんだり、嘆いたり、責めたり、

「どうして?」

 母に問うことすら、しなかった。


 本音をかくす息子に、向かい合うのが苦しい。

 あの子が苦しいと叫ばないかぎり、私も叫べない。

 閉じ込められた心は冷えて標本化する。


「これは神様が私に与えた罰なのだわ。

 罪作りな母親に与えられた罰なのよ」


 母の心は懺悔ざんげを繰り返す。じっとしていられず、繁華街を走り抜けた。

 ちまたで「幽霊が出る」とささやかれる雑木林に、そうとは知らず足を踏み入れる。

 幽霊鳥トラツグミごえと、愛していた小夜曲セレナードが聴こえて、

 息子に似た少年の、茶色い髪が揺れる後ろ姿をた。


 森林の中の一軒家は、義肢ぎしを手掛ける職人の工房だった。

 少年の耳にぴたりと嵌まる義耳みみを創った、凄腕の職人の住まい。

 森林の周囲は雑木林で、土地勘の無い者を迷わせる。


 母と息子は、端末の電波が届かない場所で、重なるように倒れていた。

 其処そこは工房の近く。凄腕の技師が、倒れている親子を見付けて通報した。


 工房にはの世界とつながる旧式の、DNAの螺旋のようなコードの付いた、

 電話が配線付そなえつけられていた。



 第十三楽章『未来に続く扉』に、つづく

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