第38話 諏訪へ配流㉑ ❀千姫、江戸城へ 出立
そんなとき。
姉の苦悩を察したかのように、弟の将軍・家光から温かな書簡が届いた。
――姉上さま、かくなるうえは、どうか江戸城へおもどりくださいませ。いえ、なにもしてくださらなくていいのです。ときどきわたくしの話し相手になってくださったら、それだけで如何にうれしいことか。勝姫どのとの水入らずのお住まいも竹橋の第ノ中にご用意させていただきますゆえ。
まさに渡りに船の申し出だった。
達筆な行間に込められた言外の思いを繰り返し目でなぞりながら、千姫はおのれのなかに生じた欣喜雀躍と気鬱のせめぎ合いを意識していた。
本音を言えば、将軍さまのご厚意は飛びつきたいほどありがたい。だが、大坂城からの脱出では祖父に助けられ、こたびまた弟の援助にすがろうとしている。わたくしの人生は身内に支えられっぱなしでよいのか。第一、日ノ本一守りの堅い江戸城内へ入ってしまえば、生涯、償いつづけなければならぬ、例の罪障はどうなる。
しかし、一方では、なにかにつけ京風を尊び関東を侮蔑する傾向のある御台所の孝子と反りが合わず、他人以上に冷えきった夫婦生活を送っていると聞き及ぶ、弟・家光の深い孤独もまた、流麗な墨痕の滲みから痛いほど感じ取れるのだった。
――江戸城へ帰るべきか、播州姫路城に留まるべきか。
うしろ盾を失った勝姫の今後にとっては、断然、前者を選択すべきだろう。
――だが、愛する忠刻や幸千代、3人の水子のお墓はだれが守るのだ。
頼りの夫も、やさしい姑も亡きいま、乳母・刑部卿局や侍女・松坂局と早尾以外には相談できる相手もいなくなった千姫は、考えを行きつ戻りつさせ迷いに迷った末に、ついに江戸行きを決意した。後顧の憂いはすべて亡父の弟・政朝が引き受けてくれることになった。
同年11月2日。
30歳の寡婦・千姫は、9歳の長女・勝姫を伴い、播州姫路城をあとにした。
文字どおりうしろ髪を引かれながら姫籠に乗りこみ、江戸へ向かう街道には、
――何処からこんなに?
訝しみたくなるほどの数の武士や民百姓が集まって来て、道々に舞い散る枯葉のようにひっきりなしに涙や鼻汁を吹きこぼしながら、淋しいうえにも淋しい母と子ふたりの道行きを見送ってくれた。千姫を苦しめた疑心暗鬼は雲散霧消していた。
「奥方さま、お元気で。勝姫さまのお幸せなお輿入れをご祈念申し上げます」
「おかげさまをもちまして播州姫路は安泰にございます。われら本多家傘下の領民一同、奥方さまの偉大な置き土産に深く感謝申し上げます」
「当地ではご薄幸だった分、江戸ではどうかお幸せな日々をお送りくださいませ。われらはみな、ただそれだけを心からお祈りしております」
周囲が羨むほど、まことに仲睦まじかった家族6人のなかで、ただひとり取り残され、次男・政朝に引き取られることになった舅・忠政から、旅立つ嫁と孫娘への最後の心尽くしとなる美々しい2挺の姫駕籠に正座した千姫と勝姫は、口々に惜別を唱えながらついてくる、ひとりひとりの領民に丁寧に頭を下げつづけた。
同月27日。
1か月近い長旅の末、千姫一行は無事に江戸城へ到着した。
幼心に容易ならざる事態が身に沁みたのか、勝姫は旅の途次で急に大人びて来ていて、「母上さま、お足もとにお気をつけになって。ほら、そこに段差がございますよ」年端もゆかぬ身ながら、不幸の渦中の母を精いっぱいに庇う様子を見せた。
そのうえ「寒い時期の長旅で、みなさまもさぞやお疲れになったことでしょう。母上のことはわたくしがいたしますゆえ、今宵はごゆるりとお休みくださいませ」長々と東海道を付き従って来た家臣や侍女たちにも、細やかな心配りを見せた。
加齢に追い打ちをかける有為転変で、すっかり涙もろくなっている刑部卿局は「まあまあ、ちい姫さまのお健気なこと。亡きお殿さまやお祖母さまが、かようなおすがたをご覧になったら、どれほどお喜びになることか。ひと目だけでもご覧に入れたかったのに、思うだにお労しゅうございます」身をよじり大泣きに泣いた。
その旅衣もまだ解けきらぬ翌々日、いまや唯一の希望となったひと粒種の勝姫と「千姫組」3女傑を伴った千姫は、取るものもとりあえず将軍・家光のもとへと、無事に着到の報告、ならびに身に余るご高配への御礼の挨拶に出向いた。
子ども時代そのままに腺病質な青白い顔を期待と緊張で強張らせていた家光は、ようやっとわが胸に飛びこんで来てくれた2羽の窮鳥を精いっぱいに労いつつも、決して押しつけがましくあってはならぬと気をつかうあまり、へんにぎくしゃくと畏まった笑顔で、落魄の姉と姪を迎えた。
同年12月6日、千姫は豊かな黒髪を落とした。
落飾の
――天寿院。
の法号が与えられた。
匂うように品格のある尼姿に変貌した千姫は、自らの菩提寺を同寺に定めた。
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