第51話 野可勢の笛⑧ 🌸父から息子へ闇越しの言葉
とつぜん闇に皺枯れた声が放たれた。
「景清の思いはわが思い。落魄の身をば、初めて
母の五六八姫から託された懐剣を振りかざしつつ、いち早く幽清が叫んだ。
「父上! お会いしとうございました」
瞬時の間があり、闇が口を開いた。
「わが息子よ」
「はい、父上」
「そなたの存在を知ったのは10年ばかり前のこと。焦がれるほど会いたかった。よき後継を得たと知り、いつかは脱出をと、久びさに復活の意欲が湧きもした」
「うれしゅう存じます」
「だが、思いは虚しゅう空まわりするばかり。どう足掻いてみたとて囚われの身。だれにも会えず何もさせてもらえぬ歳月は、どうしようもなく人心を朽ちさせる」
年寄りじみた掠れ声は、飄々と語りつづける。
「いつしか、わしは諦めた。夜、寝に着く前、ひとつ事を唱えるようになった」
「なんと?」
「明朝、目が覚めませんように、寝ている間に黄泉へ旅立てますように、とな」
「父上、お労しい」
「デウスさまは無力な囚われ人のただひとつの願いすら聞いてくださらなかった。なぜなのかと恨みもしたが、今宵そなたに会うて、ようやくその理由がわかった。このわしにもまだ成すべきことがあった。寿命とはそういうものやもしれぬ」
「父上、これからは時代が変わります。きっと良いお沙汰がございましょう」
魂の嗚咽のような幽清の絶叫は、湖面を吹いて来た秋風に乗って運ばれて行く。
だが、たしかに届いたはずの闇の声の主は、先刻と変わらず淡々と語り継いだ。
「人というものはな、動乱の渦中ではむしろ生きやすい。考える間もなく、闇雲に行動しさえすれば事足りるのじゃからな」「父上、さような悲しいことを……」
「若いそなたにはまだわかるまいが、はた目には艱難辛苦の真っ最中に見えても、当の本人は存外幸せなのやもしれぬ。……げんに、このわしがそうであったわ」
ここで一拍置いた闇の声は、活動盛りの心身を持て余した無為の歳月、何百度となく反復して来たにちがいない半生を、他人事のように冷静に分析してみせた。
「父上に疎まれた幼少時代から、打って変わって重用された青年期、美しきそなたの母を娶り、徳川と互角に渡り合える舅・伊達政宗さまの強力なうしろ盾を得た」
「お聞きしております」
「まさにこれからというとき、くるりと舞台が暗転しおった。75万石の太守から墜落したとき、恥ずかしながら毛髪が逆立ちおったわ。さような有為転変はまことに凄まじかったが、一方、謡の演目のように面白くもあった。だが、いまは……」
数多の体験で培われた貫録に圧倒され、息子の若僧は応える術を知らない。
「わしを過大評価し、被害妄想的なまでに恐れておられた兄上がいなくなったこれからも、生かさず殺さずの生殺し状態に大した変化は望めまい。せいぜいが外出のお目こぼしぐらいが関の山であろう」「まさか、さようなことは……」
「如何な将軍とて、独断専行は厳に慎まねばならぬ。まして先の将軍が疎み通した者の赦免を軽々に行っては、先代以来の家臣どもが黙ってはおるまい。仕置きとはそういうものと、遠い昔、家老の石見守(大久保長安)や三九郎(花井吉成)が教えてくれた。恩ある両名亡きあと、わしが教えを試す機会はついに訪れなかった……」
長い沈黙のあとで、闇の声はぼそっと付け加えた。
「いまさら申しても詮無いことじゃが、夏ノ陣のときに両家老が健在であったら、いまごろそなたも次期将軍として下にも置かぬ扱いを受けておったやもしれぬに、若い身空で僧形に身をやつさせ、父としてまことに無念じゃ。これ、このとおり」
闇の彼方で深く腰を折る気配があった。
「父上のせいではありませぬ」
「いや、わしひとりの愚昧が、周囲の不幸を招いたのじゃ。わしさえ身の処し方を誤らねば、みなが波風の立たぬ平坦な道を歩めたはず。それを思うだに、わが身の置き場所が見つからぬ。いまさら遅きに失するが、罪深きわが身を許してくれ」
「さようなこと」
「末期の父上から賜った『
「父上はもはや、再起のお気持ちをお捨てになったのですか?!」
ようやく幽清の口から、恨みをこめた掠れ声がほとばしり出た。
「息子よ。この手でその顔を触れることも適わぬ、わが愛しき分身よ。長いこと、生かされるでも殺されるでもない歳月を友としておるとな、自ずから物事の真髄が見えて来る。埒外に置かれたはぐれ者の感懐とでも申そうか。いまのわしを糊塗しておるのは、達観や諦念とは別種の、そうじゃな、透徹とでも名付けておこうか」
それまでひっそりと口を閉ざしていた秀雄が、唐突に素っ頓狂な声を放った。
「上総介さま。囚われの日々はやはり、堪え難くお辛かったのでございますね」
一瞬の間を置いて、闇の彼方から返答があった。
「そのお声は、わが息子の養い親の秀雄どのか、はたまた今宵の邂逅の立役者の、小十郎どのかは存ぜぬが、ご両名にはあらためて心からの感謝を申し上げる。息子が生まれてから今日までに賜ったご厚誼のかずかず、まことにかたじけなく……」
闇の向こうで、ふたたび威儀を正す気配があった。
「心配には及ばぬ。ここではみながやさしくしてくれる」
「さようでございますか。それはなによりでございます」
「因幡守(諏訪頼水)どのは3日にあげず、茅屋と申してはご無礼に当たろうが、わしの屋敷にやって来られては、小半日つまらぬ話の相手をしてくださる。まあ、謡曲の景清と違い、誇れる武勇譚のひとつも持たぬ身じゃがのう。ふっふっふっ」
「では、お淋しくはなさっていないと、奥方さまにお伝えしてよろしいのですね」
釣られて重長が問うと、忠輝はほろ苦く笑った。
「人はみな誤解のなかで生きるもの。ましてや、わしのような境遇に置かれた者の心情を理解してほしいなど望むほうが間違っておろう。わかってほしい、共感してほしい、なんなら同情でもいいと足掻く無意味は、とうの昔にうっちゃったわい」
鋭く呻いた声音が、ふっとやわらいだ。
「室は……五六八姫は息災にしておるか?」
「はい、父上。母上はいつまでも父上をお待ちしております。ですから、どうぞ」
幽清の懸命な説得に答える闇の声には、にわかに妻恋いの匂いが増して来た。
「心配性な室に伝えてくれ。ここへ流されてきた当初、何がいやといって、間近に長虫が潜んでいる気配ほど薄気味の悪いものはなかった。この湖には得体の知れぬ魑魅魍魎どもが無数に棲息しているであろう。それを思うと、おちおち眠ることもできなんだ。枕元に
「父上!」
「なんとお労しい!」
「
幽清、重長、秀雄の3人はいっせいに叫んだ。
喉に絡んだ声はしだいに湿り気を帯びて来る。
「だが、よくしたものでな、いつか人は馴れる、馴れずには生きてゆけぬ。室が案ずるほど、わしも気が小そうはなくなった、老いてずいぶん図太く、太っ腹な質になりおったと、そう伝えて安心させてやってくれぬか。でないと、あやつは……」
闇の彼方の咽び泣きが、湖面に浮かぶ金色の満月を、ゆらゆらと揺すっている。
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