第28話 流転の時代⑪ 🌸五六八姫の苦しみの歳月
実際、今朝の五六八姫は、いつになく入念な身づくろいをしていた。
かつては喜々として鏡に向かっていた身が、いつの頃からか朝の化粧を億劫がるようになったのは、肌の下に渦巻く怨念を正視したくなかったからかもしれない。
――憎い。憎い。
わたくしたち家族をこんな目にあわせた者どもが憎くてならぬ。
縦横に野分が吹き去ったあとの広瀬川のように、勢いよく奔流する思いを制御できず、悪鬼と化しそうな己自身のありように慄くとき、胸元のロザリオをまさぐりながら一心に唱える祈りがあった。
真実を直視したくない向きには、甘んじて誹られよう。
人は弱い。弱い己を守るため、置かれた立場で行動する。
一方にとっての正義が、他方にとっての不義ともなり得る。
ひとつの事実に関わった、人物の数だけの真実があるのだ。
ならば、だれをも責められぬ。
ならば、だれをも恨んではならぬ。
遅くできた第1子として両親に溺愛され、わがままいっぱいに育った。
美々しい行列を連ねて忠輝に嫁したのちも、傲岸不遜を絵に描いたような権高な奥方を貫いた五六八姫が、塗炭の苦しみの末、初めて自ら導き出した結論だった。
2年前、松平忠輝は
――伊勢へ参らば朝熊を駆けよ、朝熊駆けねば片参り。
伊勢神宮と並び古くから民衆の尊崇を集めてきた山岳信仰の聖域に、わずか2年しか置かれなかったのは、謀叛はもとより切腹も御法度、生かさず殺さずの生殺し状態に苛立った忠輝が、かつての配下だった隠れキリシタンと組んで、ひと騒動を企む不穏な動きが発覚したため……とかく事あれかしを願う世間では面白おかしく囁かれているらしいが、離縁となった身には、いっさいの知らせが届かなかった。
仮にも同じ父親の血を引く弟を、闇から闇に葬るような仕打ちはなさるまい。
関ヶ原に加え大坂で2度、計3度の大戦を経て、旧来から徳川に仕える譜代と、新たに傘下に入った外様が複雑に入り組んだ全国の大名を統べる、難しいお立場になられたのだ。いったん広げた風呂敷を軽々に畳むことは許されぬ。だれもが納得できるご赦免の時機到来を待っておられるのだ。いや、きっとそうにちがいない。
それほどの器でなければ、大御所のあとを継ぐ2代将軍がつとまるはずがない。
人は環境で変わるとか。げんに苦労知らずのわたくしも、否応なしに変容を余儀なくされた結果として、どうにかこうにか辿り着くことができた今日ではないか。
申し上げては何だが、蚤の
努めて明るい方向に想像し、天晴れ松平忠輝の妻に帰り咲く姿を思い描いては、ときどき挫けそうになる己を奮い立たせていた五六八姫にとって、デウスまで恨みたくなるような配流替えの凶報は、ずっしんと肚に応える、最悪の出来事だった。
――御公儀は、義兄上は、まだ30歳前の弟の処遇をどうなさるおつもりか。
老獪な相手の心がまったく読めない。
もどかしさが五六八姫を責め苛んだ。
暗澹と胸を焦がす夜を限りなく重ねた。
化粧に身が入らなくなった所以である。
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