第5話 大坂夏ノ陣④ 🌼形見の懐剣と蘇民将来






 長い幽閉生活の間に茶色く変色した往古の地図を広げ、老いの巻き返し策を滔々と語り続けた祖父の昌幸が逝ってから4年後に、大坂の豊臣秀頼から出陣の要請が届いたとき、満を持して時機到来を待っていた真田信繁に寸分の迷いもなかった。


 打てば響くように即応した信繁は、秋祭りの夜、里人のにぎわいに紛れて九度山を発ち、途中で落ち合った3人の妻と7人の子どもたち、高梨内記ほか上田以来の家臣ら一族郎党を全員引き連れて、大坂城内に拝領した真田屋敷に駆けこんだ。



 笑い声ひとつにも気を遣うような物々しい暮らしがさほど苦痛に思われなかったのは、ただひたすら無為な時間を重ねるだけの囚われの日々と違い、希望や目標と言い換えてもいい、戦うべき敵のすがたが明確になったからにほかならなかった。


 紀州藩から支給される50石と、上野沼田城主として真田家を守る兄・信之からの不定期な仕送りを輝葉姫考案の「真田紐」の内職で補う窮乏生活を脱したいま、正室・側室の枠を越えた真田一族としての強固な団結心が根を張っていることを、阿梅姫も肌で感じ取っていた。


 だが、不利な講和を結んだ冬ノ陣から半年足らずで再発した夏ノ陣までのっぴきならぬ事態に陥っているいま、幼馴染みから側室に取り立てられ、信繁を敬い慕うこと他の妻妾の追随を許さぬと自負する芳野と、その父・高梨内記が信繁と運命を共にするのは当然としても、正室の輝葉姫とその子どもらの身の振り方はどうするつもりなのか。


 身重の身体で2月前に大坂城を脱出し、京嵯峨野の瑞龍院に隠棲する祖母(豊臣秀吉の姉、秀次の母)日秀尼のもとに身を寄せている一の側室・波瑠姫とその娘の御田姫の心配はひとまず置くとしても、現在、大坂城に居残っている5人の子どものうちで、なぜ自分ひとりだけが敵方の将に預けられるのか。

  

 訊ねたいことは多々あった。

 だが、一方では、いまとなっては、何もかもどうでもいいような気もしていた。


 ――去るも地獄、残るも地獄。


 ならば、いまや戦友の絆さえ芽生えつつある家族の行く末を訊いてどうなろう。

 ひたすら武運を祈り、せめてあの世での再会を期すぐらいしか方途はなかった。



 信繁がさっぱりした顔を上げた。


「では、阿梅姫。別れの水杯じゃ」

「父上、謹んで承ります」

「あの世で再び家族になろうぞ」

「はい、心から喜んで」

「それまで、しばしの別れじゃ」


 気の利いた返答をと焦ったが、頭の芯が痺れたようになって言葉が出て来ない。


 小さな顔からこぼれそうな双眸を瞠っている阿梅姫を愛しげに見つめ、かざした杯を豪快に飲み干した信繁は、自分自身に言い聞かせるようにしみじみと告げた。


「形見の懐剣を持って行くがいい。わしに替わって、そなたを守ってくれようぞ」

「父上、ありがとうございます」


 小袖の膝を慎ましくにじらせた阿梅姫が、梅の花柄が刻印された美麗な鞘を押し頂くと、かたわらから母の芳野も白い布に包まれたこけし型のものを差し出した。


「そなたも朝に夕に手を合わせてきた信濃国分寺の蘇民将来そみんしょうらいの御符です。紀州送りになって国を出るとき、左衛門佐さまと真田家の招福除災を祈って荷物に忍ばせてきたもの。この先は母に替わってそなたをお守りくださいましょう」

「母上、ありがとうございます。大切にいたします」


 ――父の形見の懐剣と、母の形見の御符。


 この世にふたつとない至宝となる品々を抱いた阿梅姫は、南蛮渡来の陶器のように滑らかで染みひとつ見当たらない頬に、ほろほろと大粒の涙を散らした。細筆の先でちょんと突いたような右目の下の泣き黒子も、小さな点を戦慄かせている。


 ふと、血なまぐさい硝煙が鼻先を掠めたような気がして阿梅姫は身を堅くした。


 本丸奥御殿の最奥に位置する淀ノ方の居室に籠もっているであろう、目も覚めるような美男美女の一対……最悪の事態にいかように処したらいいのか途方に暮れているにちがいない、豊臣秀頼と千姫ご夫妻の面影が阿梅姫の脳裡を掠めていった。

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