第30話 流転の時代⑬ 🌸幼僧の吹く篠笛
ひとしきり鯉と遊んだ龍千代は父・忠輝に瓜二つの面立ちを秀雄に振り向けた。
「叔母上さまに、あれをお聴かせしてもいい?」
「いいですよ。さあ、これをどうぞ」
取り出したのは、子どもの手にも馴染むように、こぶりに作られた篠笛だった。
「まあ、笛が吹けるのですか?」
大仰に五六八姫が驚いて見せると、龍千代は得意気に小鼻を蠢かせてみせた。
――こんなところまで父親にそっくり。
血のつながりとは不思議なものじゃ。
あどけない少年の所作のいちいちが、名乗れぬ母親の琴線に切なく触れて来る。
「うん。セッソウの笛にはね、心が籠もっているんだって」
「まあ、そうなのですか」
「いつもそう言って秀雄が褒めてくれるんだよ、ねぇ」
拙僧という大人の言葉までつかいこなす龍千代の利発が、五六八姫にはいっそう哀れだった。叔母上ならぬ母親の胸中も知らず、龍千代は唇を篠笛に押し当てた。
――ヒューラリー、ヒューラリーラリー。
張り詰めた氷の底を勢いよく迸る浅春の瀬音のような澄みきった音が流れ出る。
子どもが吹く笛とは思えぬ物寂びた情趣が、あたりを竜胆色に塗り込めていく。
産みっぱなしも同然のわが子の演奏に一心に耳を傾けながら五六八姫は、生母の茶阿局を通じ、末期の家康から忠輝が拝受したという
何もすることがない。
何もしてはならぬ。
生きながら葬られたも同然の無聊を、亡父の形見が慰めているだろうか。
目の前の息子が悲しいほど忠実に受け継いでいる肉厚で艶々した唇に、黒い篠笛を押し当てた夫は、いまごろなにを思い、なにを諦め、なにを期しているだろう。
父親の顔を知らぬ子。
子の存在すら知らぬ父。
叔母を装わねばならぬ母。
ことのほか雪が深いと聞く飛騨高山の冬を案じながら、五六八姫は際限なく運命に弄ばれる一家3人の流転を凝然と見据えていた。
「さあ、そろそろ庫裏へ参りましょう。長旅の疲れを取らねばなりませぬ」
「そうですね。では、叔母上さま、今日はこれにてご無礼申し上げます」
秀雄に促されて暇乞いをする息子に、五六八姫はふと呼びかけた。
「これ、龍千代どの」
「はい、叔母上さま」
礼儀正しく振り向いた丸い頬が薔薇色に輝いている。
親はいなくても、健やかに成長している証しだろう。
「これをそなたに進ぜよう」
「セッソウに、これを?」
「そうじゃ。肌身離さずに持っているがいい」
――いただいてもよろしいのですか?
というように、少年はうしろの秀雄を振り仰いだ。
「お布施にござります。ありがたく頂戴なされませ」
「叔母上さま。どうもありがとうございます」
幼心が信頼しきっている育ての親との親密ぶりが、五六八姫の目には毒だった。
――もしや秀雄どのはわたくしに、仲の良さを見せつけておられるのか。
万にひとつもそんなことがあるはずがない。足を向けて寝られぬ恩人に、なんと不埒な考えを抱くのか。義兄の小器を嗤えぬ愚かなわたくしとたしなめながらも、心の奥底からせめぎ上がってくるチリチリした妬心をどうしても抑えきれない。
――いやいや、いかぬいかぬ。
未熟だった若い頃のように、堪え性もなく感情の赴くままに怒りを爆発させたりすれば、愛しいわが子にいっそう敬遠されるだけじゃ。
無理に微笑もうとする五六八姫の顔は、なんともぎこちないものになった。
黙って一部始終を見守っている侍女・茜音が、袂でそっと目頭を押さえた。
叔母と甥を装う暮らしが始まった年の夏、伊達家に特筆すべき出来事があった。
ひとつは支倉常長の7年ぶりの帰還。
ひとつは鬼庭綱元の3年ぶりの帰還。
慶長18年(1613)10月28日、主君・伊達政宗自らの盛大な歓送のもと慶長遣欧使節団を率いて月ノ浦を出帆し、ローマ法王への拝謁も果たした支倉常長が、自らの洗礼名ドン・フィリッポ・フランシスコを携えて帰還したのは元和6年8月24日だった。
しかし、日本を離れていた7年間に大坂ノ陣を挟んだ時代様相は一変しており、もはや祖国ではキリシタンは歓迎されなくなっていた。出航時の賑わいとは打って変わった殺風景な出迎えが、本邦初の偉業を成し遂げた常長一行を淋しがらせた。
早逝した伊達宗綱(政宗の5男)の後見役だった鬼庭綱元が、わが子同然に慈しみ育てた若武者の菩提を弔うために入山していた高野山成就院から帰還し、仙台城下の
さらに。
元和7年(1621)6月12日、忠輝の生母・茶阿局が江戸城下で没した。
忠輝との結婚時代、鋳物師出身の姑は、息子のふたりの連れ合いのうちで、どちらかと言えば側室・竹之局との相性がいいような素振りを見せていたので、離縁後も疎遠になったままだったことを、知らせを受けた五六八姫は少しだけ悔いた。
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