第16話 大坂夏ノ陣⑮ 🌸忠輝に託された野可勢の笛







 元和2年(1616)4月17日。江戸幕府を創設して初代将軍に就き、息子の秀忠に譲ってから大御所と呼ばせた徳川家康が没した。享年74の大往生だった。


 危篤を知った忠輝は勘当の身とはいえ早馬で駿府に駆け付け、城下の宿に控えて末期の父に面会を申し入れたが、息子としての願いが適えられることはなかった。


 ただ、失意の忠輝に意外な出来事があった。


 家康が亡くなる前日、ひそかに息子のもとを訪れた生母の茶阿局が、京紫の縮緬の布に包まれた1管の黒橡くろつるばみ色の横笛を届けてくれた。


「昨夜の深更、お付きの人をことごとく遠ざけられた大御所さまが、わらわひとりを枕頭に呼ばれ、託されたお言葉がある。御遺言として心して拝受するがよい」


「父上が、わしに?」


「そうじゃ。『天下人の笛は、上総介(忠輝)に譲る。考えること、感じること、動くこと。あれはあまりにも余に似過ぎておった。母親から引き離され、人質に取られた幼少期に培われたものが、そっくりそのままあれに憑依ひょういしたのじゃ。一時は近親憎悪にも似た感情を持て余したこともある、あれへの思いはこの笛に託した。唇に当てれば、自ずから余の心が伝わるはずじゃ。余が如何にあれのことを……』意識を失くされる寸前、大御所さまはたしかにそう仰せになったのじゃ」


 織田信長から豊臣秀吉、さらに徳川家康へ。

 天下を統べた三者の手を渡った因縁の篠笛。


 ――野可勢のかぜの笛。


 と名づけられた特別な逸品を、天下仕置きの後継者に定めた兄の秀忠ではなく、さらには他の兄弟たちでもなく、勘当を申し渡した自分に、なぜ託されたのか。


 一見、地味で小ぶり、どこといって特別なおもむきも見当たらぬが、それだけに凡庸の内にかえって希少な宝玉を秘めていそうな横笛を押しいただく忠輝の胸に、久しく忘れかけていた闘志が沸々とよみがえってきた。


 早逝した長男・信康、5男・信吉、7男・松千代、8男・仙千代を除くと、家康の血を引く男子で現存しているのは、3男・秀忠、6男・忠輝、9男・義直、10男・頼宜、11男・頼房の5人だったが、このうちで、臨終に立ち会うことが許されなかったのは6男・忠輝ただひとりだった。


 いまを去る10年前、相次いで不審死を遂げた次兄・結城秀康と4兄・松平忠吉の例もある。


 ――絶対的支配者であられた父上が逝かれたあと如何なる歪みが立ち現れるか、いまは見当もつかぬが、父上の御形見の横笛がわが手にある限り、わしは如何なる逆境も跳ね返し、この狭い島国に限らず、海の向こうの国々までをわが掌中にしてみせる。


 ひとり蚊帳の外に置かれた忠輝は堅く心に誓った。


 それらしいことは口にされなかったが、とりわけ人間観察に卓抜であられた父上のこと、この愚息の体内に流れる鋳物師出身の母譲りの「道々のともばら」の血潮を、朝鮮を突破口に海外制覇を目指した太閤秀吉の上を目指す大それた野望を、とうに見抜いておられたのではなかったか。そんな気が、しきりにした。

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