第46話 野可勢の笛③ 🌸五六八姫の痛憤





 阿梅姫や蘇鉄を相手に、重長が滔々と先祖自慢を繰り広げていたころ……。


 白石城より13里(50キロ)北方に位置する仙台城西屋敷の奥の間では、39歳になった五六八姫が59歳の秀雄と17歳の黄河幽清の前に凝然と座していた。


「わが家を葬り去ったお人が、やっと死んでくれた。畢生ひっせいの仇敵がようやっとな」

「まことに長い星霜であられましたな」


「ここだけの話、天晴れ、祝着至極じゃ。鐘太鼓で踊りまわりたいくらいじゃわ」

「お気持ちのほど、ご拝察申し上げます」


「だが、今頃になって死んでくれても遅いわ。25歳から41歳まで花の男の盛りを無惨にも奪われた殿の、珠の如く光り輝くべき半生は二度と取り返しがつかぬ」

「まことにご無念と存じます」


「ひとたび掌中にしたものは、ただのひと欠片とて手放す気はない。そのためには血を分けた弟を生きたまま封じ込めて恥じるところがないとは、いったい人として如何なる仕儀か。デウスさまに顔向けのできぬ罪障を如何に償われるおつもりか」


 歯噛みして悔しがる母親を、めっきり上背が伸びた幽清が黙って見つめている。


 筆舌に尽くせぬ苦難に揉まれ、人並み程度まで鎮まっていたかに見える五六八姫の持ち前の我儘気質が、こういう場面では堪え性もなく頭をもたげて来るらしい。


「龍千代。江戸で亡くなったお人はなあ、たれあろう、そなたを父無し子に貶めた当の張本人、人のかたちをした奸凶かんくうにして悪魔サタンなるぞ。他人事の如くあっけらかんとしておられる場合か。そなた、口惜しゅうはないのか。え、幽清。なぜ、なにも言わぬ。ええい、じれったい!」「叔母上さま、すべては仏のお導きと存じます」


 大人びた見解を述べた幽清は、目を吊り上げ面罵する母を傷ましげに見やった。

 横に控えた秀雄もまた、慈しむ仏弟子に唱和するように、静かに手をつかえる。


「まったくどいつもこいつも不甲斐ない。目には目を、歯には歯を、力には力を、恨みには恨みをもって、倍返し、3倍返し、いいや10倍返しで対峙し、徹底的に打ち負かしてやる気構えこそが、誇り高き武士の、武士たる本懐であろうがっ!」

「さような考え方もございましょう」


 なにかといえば幽清を庇う秀雄の差し出口が、五六八姫には腹立ちの種である。


「いまだ物事の道理を弁えぬ若輩の龍千代ならいざ知らず、もうとうに酸いも甘いも噛み分けたはずの秀雄どのまでが、なんの悠長を仰っておられるものやら。それともなにか、ふたりとも誇り高い武家の出自でありながら、長の歳月辛気臭い法衣に身を包んでいる間に、気持ちの隅々まで抹香色に染まり果てたとでも申すのか」


「いずれとも、お考えのままに」

 あまりの言われように、さすがの秀雄も、言葉にいささかの骨を含ませた。


「ええい、もうよいわ。阿吽の呼吸で話が通じる、白石の小十郎に聞いてもらう。腰抜けのそなたどもは早々に退却してしまえ。揃って地獄ヘルへ落ちるがよいわっ!」


 久しく鳴りを潜めさせていたおのれの癇癪玉を、このときとばかりに、どっかんと投げつけた五六八姫は、厚く降り積もった怨念の塵をあざやかな真紅の打掛けに降りかけ、吹雪のように舞い狂う、謡曲『紅葉狩』の鬼女紅葉そのものだった。


 先述のとおり、親しく交流していた細川ガラシャ(玉姫)の感化を受けた愛姫のもとに生まれた五六八姫には、物心ついておのれの意思の選択の余地はなかった。好むと好まざるとに関わらず、生まれついてのキリシタンである。


 その一方、至上のデウスを崇めれば崇めるほど、現実のさまざまな場面において共通点と差異点を痛感させられている異教の存在に敏感にならざるを得なかった。


 ましてや、愛しいわが子が謹んで身を捧げる仏教においてはことさらに……。


 釈迦を出産したあと、産褥熱のため7日後に他界し、のちに忉利天とうりてんに転生した麻耶夫人まやぶにん。従弟の釈迦と幸せな家庭生活を営み、悪魔ラーフラと名づけた息子をもうけながら、すべての人間が逃れられぬ生老病死の四苦に目覚めた夫に、ある日とつぜん出家されてしまった耶輸陀羅ヤソーダラー


 異教の開祖を巡る伝説に、母として妻としての自分を重ねてみるとき、


 ――幾百万幾千万の衆愚を導かれた釈迦も、生まれついて悲哀と同行なさった。御公儀に潰されかけた夫。道連れのわたくし。妻子を捨てた釈迦。捨てられた耶輸陀羅。いずれの夫婦がどれだけ幸福でどれだけか不幸か、一概には言えぬ。だが、ひとつだけ確かなことは、悲しみと無縁の生など、どこにもないということだ。


 そんな皮肉な、少しばかりいびつとも言えそうな思いに、わずかに慰められて来た。

 だが、夫婦を分かつ障害物がひょいっと外されたいま、命より大事なわが子に、


 ――すべては仏のお導きかと……。


 賢しらげな道理を諭されると、振り上げた拳の下ろし場所に困るではないか。



        *

 


 その頃、江戸城では、28歳の3代将軍・家光を援け、36歳の千姫が、父親である大御所・秀忠の葬儀の手配に追われていた。


 4年前、たったひとりの家族だった長女・勝姫を鳥取藩主・池田光政に嫁がせて以来、ぽかんと大きな穴が開いたような喪失感に支配されていた千姫にとり、父・秀忠の死は、長男・幸千代、夫・忠刻、姑・国姫、母・お江ノ方、さらには前年に播州姫路で没した舅・忠政に加え、わずか10年に経験する6度目の別れだった。


 打ちつづく訃報にも挫けず、同じく孤独な将軍を援け、気丈に大奥を仕切る千姫を、相応に老いたとはいえ依然として矍鑠かくしゃくとした乳母・刑部卿局、幼馴染の侍女・松坂局、最年少の早尾の「千姫組」3女傑が、変わらず強固な連携で守っている。

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