第9話 大坂夏ノ陣⑧ ❀千姫、祖父・家康の陣へ
刻一刻、危険が迫っている。
「はや三之丸は焼失! 二ノ丸を嘗めた火は、本丸に移ろうとしております!」
廊下の叫び声に急き立てられた一同は、われ先に慌ただしく席を立った。
早尾を先頭に松坂局、千姫、刑部卿局と並んだ一行は、前後を護衛の武将に守られて淀ノ方の部屋を滑り出た。
葵散らしの純白の打掛を頭から被った千姫が、去り際にほんの一瞬、振り返ってみると、縦横そろった偉丈夫の秀頼に抱きかかえられた淀ノ方のうしろに、老乳母の大蔵卿局と饗庭局がわらわらと随い、見るからに頼りなげな一団の最後尾を公家風の大野修理が守って、串刺しの団子のように連なって逃げて行くところだった。
差し迫る危険に追われ、こちらを一顧だにせず立ち去る夫と姑の姿が、千姫の目の底に、しんと残った。
――あら……。
何とも言えぬ虚しさと淋しさが脳裡をよぎったが、それを打ち消すかのように、
――大坂城内の最北端、三方を水濠に囲まれた山里曲輪まで追い詰められれば、もうあとがない。文字どおり四面楚歌に陥るしかないだろう。乳母や傅役に守られて震え慄いている幼い姉弟、殿の血を継ぐ静蘭姫と国松丸の様子も気懸りな……。
金襴緞子の帯の下に、黒雲のような不安が嵩高に競り上がって来た。
――だが、いまは一刻も早く徳川陣営に出向き、祖父の家康、事足りなければ父の秀忠に淀ノ方と秀頼母子の命乞い、および豊家の存続を懇願しなければならぬ。
護衛の堀内氏久の案内で人気がない表御殿を走り抜け、建物という建物から紅蓮の炎を噴き上げる二ノ丸から土塀の下を潜って城外へ忍び出た一行は、日焼けした顔を砲煙で煤けさせ、太刀や槍を振りかざした10人ほどの東軍に取り囲まれた。
とっさに千姫の前に進み出たのは、3人のお付きの中でも勇敢な松坂局だった。
「無礼者。ここにおわすは将軍家一の姫、千姫さまなるぞ。緊急のお遣いで姫さま御自ら、御祖父・大御所さまの御本陣へ出向かれるところじゃぞ。さように物騒なものは引っ込め、早々に案内いたせ」
甲高い女声に野太い男声で即応したのは、厳つい髭面の
「承知いたした。拙者が責任を持って大御所さまの御本陣までお届け申し上げる」
坂崎出羽守直盛と名乗った徳川方の武将は、豊臣方の堀内氏久から女ばかり4人の一行を受け取ると、百姓から調達した荷車に千姫を隠し、硝煙や焼き焦げ、飛び散った人間の内臓などの悪臭を掻き分けながら、茶臼山の家康本陣へひた走った。
近未来、滅ぼすつもりの相手に可愛い盛りの孫娘を嫁がせた家康にも、役目柄の冷徹と反する、平凡な祖父の片鱗がほんのわずかにせよ残っていたものとみえる。
先の冬ノ陣のときすでに船場の町屋を移築させ、茶室や風呂まで備えた本格的な本陣を造っておいた。その、戦場の仮屋とは思えぬほど立派な陣屋で、次々に寄せられる戦勝報告に満足の笑みを浮かべていた家康は、ひそかに案じていた孫娘の着到を聞くと、老いの足をもつれさせるようにして表座敷へ
――これがわたくしのお祖父さま?
千姫は、12年ぶりの祖父を観た。
ずいぶんとお年をお召しになって。
それにまあ、よくお肥えになって。
狸爺と陰口される老人の不気味に肉厚の掌で、兄のごとく敬愛する夫も、生母の代わりに愛しみ育ててくれた義母も、そして、ふたりに付き随う数多の家臣とその家族も、数えきれぬほどたくさんの人たちが、いいように転がされているのだ。
――大事な人たちを苦しめる張本人が、一代置いた直系の肉親である。
これ以上はないほど皮肉な事実が、千姫には汚らわしく思われてならなかった。
「おお、おお、千姫か。よくぞ無事でもどってくれた。ありがたや、ありがたや。これも御仏のご加護のおかげじゃわ。南無阿弥陀、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。向こうではさぞ難儀な目に遭わされたであろうが、こうして祖父の陣へ入ったからには、もはや辛い思いはさせぬ。奥で湯あみでもして、ゆるりとくつろぐがよい」
険しい表情で立ち尽くす孫娘の先手を打って、家康がねんごろな労いを述べた。
だが、れっきとした人妻をつかまえて、幼児をあやすような作為めいた口調は、かえって、いま先刻の千姫の記憶をまざまざと呼び覚ます役割を果たしたようだ。
極度の疲労で朦朧としかけていた千姫は、はっと我に返り、家康に詰め寄る。
「わたくしのことよりも、夫と淀ノ方さまのお命を、一刻も早くお助けください」
「ふむ、それは……」
「なにをためらっておられますか。お祖父さまの号令ひとつで、大坂城への攻撃はいますぐにでも止められるのでございましょう? ね、そうでございましょう?」
「それはそうじゃが」
「ならば、さあ、早く!」
かすかに眉間を寄せた家康は、太り
「これはまた、着いたとたんに祖父におねだりとは、何とも性急なことよのう」
「申し訳ございませぬ」
「さて、慌てぶりはだれに似たのであろう。父か母か、それとも、このわしか」
「そんなことよりお祖父さま。いまこのときも、おふたりが危のうございます」
「相わかった。わかったがしかし……」
いにしえの雛人形のように雅な面立ちを苦悶に歪め、蝋のように白く滑らかな頬に透明な花びらのような水滴をはらはら散らせつづける孫娘を扱いかねた家康は、「ふむ、そうじゃそうじゃ」したり顔で頷いてみせた。
「可愛い孫娘の願いならば、なにをどうしても適えてやりたいのが人情じゃ」
「ならば、ただちに」
「だが、あいにく天下仕置きの旗振りはすでに将軍に譲り渡してある。もはや将軍の意向を訊かねば、いっさいの物事が進まぬ仕組みができあがっておるのじゃよ」
「ならば、いますぐ将軍さま、いえ父上にお願いにまいります」
「そなたが?」
「はい、もちろんでございます。お祖父さま、父上の御陣は何処におわしますか」
泥と煤に汚れた千姫の足袋は、早くもその向きを変えようとしている。
曖昧な笑みを用心深く浮かべた老人は、ゆるゆると孫の性急を宥めた。
「とうに日は暮れた。夜間の戦場を女子の身で出歩くなど危険極まりない。将軍の陣にはこの祖父から信頼できる家臣をつかわすゆえ、そなたはここで座して待つがよい。考えてもみよ、そのほうが速い。そのうえ安心安全にして確実でもあろう」
家康の説得に千姫がなお反論しかけたとき、ひとりの姥が奥から進み出て来た。
「ささ、姫さま、こちらへどうぞ」
「何処へ連れて参ろうというのか」
「どうかご安心召されませ。これからはわたくしがお世話させていただきます」
巌も蕩かすような柔らかな声の主は、並み居る側室のなかでも最古参で、機転の利く頭のよさ、周囲の人望の高さから家康にもっとも信頼されている愛妾の阿茶局だった。嫁ぐ前の千姫も舐めるように可愛がってもらった、懐かしい女性だった。
「でも、わたくし……」
なおも千姫が言いかけたところへ、今度は乳母の刑部卿局が割って入った。
「姫さま、大御所さまの仰せに従いましょう」
「それで本当によいのか」
「大丈夫でございますよ。きっとよしなに取り計らってくださいます」
「さようか……」
「もうもう荒々しいことはたくさんでございます。すべては殿方にお任せして、せっかくの仰せですから、お風呂をいただいて早めに休ませていただきましょう」
生まれて初めての戦場突破の強行軍で、全員、疲労の極に達していたのだろう。
げっそり頬を窪ませた松坂局と早尾も、盛んに首を縦に振って賛同を示している様子を目の当たりにすると、千姫だけがどうしても行くとは言えなくなって来た。
「ではお祖父さま、必ず将軍さまに掛け合ってくださいますね」
「ふむ。姫の用向きは、この祖父が、誠心誠意お伝えしようぞ」
「きっとですよ、必ずお約束ですよ、お祖父さま」
「相わかった。わかったゆえ安心して休むがよい」
くどく念を押された家康は煙ったげに眉をしかめ、鷹揚に請け合ってみせた。
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