第2話 大坂夏ノ陣① 🌼阿梅姫と父・真田信繁

 

 


 

 慶長20年(1615)5月6日(新暦6月2日)酉の刻――


 大坂城の真田屋敷で、12歳の阿梅姫は49歳の父・真田信繁と対面していた。


 触れれば折れそうに華奢な肢体。細く通った品格のある鼻梁。生母ゆずりの白い頬。消し炭で暈したような眉。濡れ濡れと光る鳶色の眸。いまだ寒気が残る弥生に凛然と咲き出た梅の蕾さながら、控え目に微笑む紅の唇。ぷくっと愛らしく膨れた右まぶたの下には、細筆の先でちょんと突いたような、可憐な泣き黒子がひとつ。


 ほっそりとした肢体に小づくりの童顔を載せた阿梅姫は、野薔薇、雨降花、勿忘草など初夏の花々を色とりどりに浮かび上がらせた深緋色こきひいろの単衣をまとっている。


 一方、鎧を脱ぎ捨てたばかりの父親は生々しい戦場の匂いを芬々と放っていた。

 異様な昂揚に支配された座敷には母の芳野、その父の高梨内記も同席している。

 逆立つ銀髪の下の赤銅色の髭面に疲労を滲ませた信繁がおもむろに口を開いた。


「話というのはほかでもない。そなたも聞き及んでおろうが、もはや打つべき手はことごとく打ち尽くした。亡き太閤さまには顔向けできぬが、豊家ほうけの御運も、もはやここまでと見たほうがよさそうだ。阿梅、覚悟はよいか」

 重々しい口の端から、弱い者、庇護すべき者への想いが切々とあふれ出る。


「はい、父上。とうに」

「わが娘ながら天晴れじゃ」

「父上とご一緒に、最後まで右府(豊臣秀頼)さまをお守り申し上げます」


 凛然と答えた阿梅姫は、戦場の最前線から命からがら撤退してきた荒武者どもが持ち込む砂埃で異様にざらつく畳に華奢な手をつかえて、揺るがぬ意思を示した。

 小袖からのぞく指先が、残酷なほど、白く、か細い。


 ――ぐうっ……。


 信繁の喉が妙な音を立てる。

 肩を震わせて嗚咽を堪える父を、阿梅姫は初めて見た。


 道明寺誉田どうみょうじこんだの戦いで、勇将の名を欲しいままにしていた後藤基次がまさかの討死を遂げたのは、濃霧に阻まれて到着が遅れた自分の責任だと陳謝した信繁は、その場で自分も討死しようとしたが、先着で援軍を布陣していた「大坂城五人衆」仲間の毛利勝永に懇々と説諭された。


「まあ、待たれよ。なにも慌てて死に急ぐ必要はあるまい。どうせ敵にくれてやる命ならば、せめて右府さまの御馬の御前で、われら両名打ち揃って、華々しく討死を遂げようではないか」


 それもそうだと思い直した信繁は、勇躍、撤退の殿しんがりを買って出た。

 愛馬・月影を駆って伊達軍の先鋒を務める片倉重長隊をさんざんに蹴散らし、


 ――やあやあ、腰抜け侍ども! 関東勢百万と候えども、おとこはひとりもなく候。


 声も嗄れよとばかりに咆哮した勇ましい戦場譚は、目撃した武士の口から口へと流布され、さすがは父・昌幸譲りの勇将と、味方中に喧伝されていたはずだった。


 だが、いま目の前で肩を落す父には尊崇される英雄の片鱗もうかがえなかった。

 先の八尾若江の戦での木村重成に次ぎ後藤基次も失った衝撃もさることながら、いまの信繁を深い絶望の縁に追いやっていたのは、いまこそ右府さまの出陣をと、たび重ねての進言にも、いっさいの聞く耳を持たない取り巻き連の存在だった。


 ――ここまで低下した士気を鼓舞できるのは、御大将の出陣しかございませぬ。


 武士としての、さらには人間としての魂魄を賭けた秀頼への直訴は、差し出口の類はいっさい耳に入れまいとて二六時中そばを離れようとしない「おふくろさま」こと淀ノ方や、揃いも揃って腰巾着揃いの胡乱な豊臣譜代衆に阻まれ、ついに実現しそうもなかった。


 悄然と落した肩から惹起されるのは、対照的に潔い、数か月前の父の姿である。


 そのころ、謀将の呼び声高かった父・昌幸の信濃上田城を手本に、大坂城平野口の南側に築いた巨大な要塞「真田丸」は、昨冬の戦(大坂冬の陣)休戦後の講和に基づく堀の埋立工事によって跡形もなく取り壊されていた。


 失意の信繁のもとを、小出しの寝返り条件を手土産として家康の使者が訪れた。

 太閤秀吉亡きあと、ただちに台頭した新覇者からつかわされたのは、信繁の兄の真田信幸(之)と共に東軍に就いた、叔父(昌幸の弟)の真田信尹さなだのぶただだった。


「よいかな、源次郎(信繁)。時代はいま、凄まじい勢いで動いておるのじゃぞ。ときの潮目が大御所さまにお味方しておることは、だれの目にも明らかであろう」

「……まあ、それは」

「誇りある武将として、また数多の家臣のおさとして、絶好の機会を見逃してはならぬ。そなたの妻や子どもらのためにも、いまこそ決断すべきときなのじゃ」


 だが、身内ならではの情実を尽くしての説得に、信繁は頑として乗らなかった。


「叔父上、浅学をご案じくださってのご厚誼、まことにかたじけのう存じます」

「いや。わしとて、身内を思えばこそ、敢えていやな役目を買うて出たのじゃ」


「ご温情のほど、まことに身に染み入ります。心から感謝申し上げます。なれど、それとこれは話が別でございます。信濃一国、いいえ、たとえ日本の半分を賜ると仰せになろうとも、この左衛門佐、恩顧ある豊臣御曹司をお守りする心情に、いささかの揺るぎも生じはいたしませぬ。どうかこのままお引き取りくださいませ」


 わが父ながら胸のすく好漢ぶりが、いまは哀しく思い返されるばかりだった。

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