第4話 大坂夏ノ陣③ 🌼紀州九度山のふるさと





 阿梅姫が生まれたのは、女人禁制で知られる高野山麓にある九度山の里だった。


 関ヶ原合戦の折り、父子3人による下野犬伏しもつけいぬぶせの密談で西軍に就くことになった父・真田昌幸と次男・信繁は、敗戦後、死罪を覚悟したが、どちらが勝っても真田家が存続できるよう東軍に就いた長男・信幸(之)、その妻で家康の養女の小松姫、その実父で家康の寵臣の本多忠勝らの捨て身の嘆願により配流となった。


 当年とって54歳の昌幸は、配流先に正室・山ノ手殿や側室を伴わなかったが、34歳の信繁は正室の輝葉姫(大谷吉継の娘)を初め、一の側室の波瑠姫はるひめ(豊臣秀次の娘)、二の側室の芳野(家臣・高梨内記の娘)を引き連れて行った。


 最も古株で、信繁の長女・阿菊姫を産んだ阿美余おみよ(家臣・堀田興重の娘)は最年長であり、生来病弱な質でもあったため、本人の希望で上田に残された。


 石田三成の盟友・大谷芳継の長女で、京生まれ京育ちの輝葉姫には伏見の真田屋敷から紀州へ移った翌年産んだ長男・大助、阿梅姫より1歳上の3女・あぐり姫、その下に7女・おかね姫、次男・大八、9女・阿菖蒲姫おしょうぶひめがいた。


 実子・秀頼の誕生により養父・秀吉から切腹を命じられた関白・豊臣秀次の娘で同じく京生まれ京育ちの波瑠姫には、阿梅姫と同い年の6女・御田姫おでんひめがいた。


 信濃上田に生まれ育った芳野には、阿梅姫より前に上田で産んだ於市姫(信繁の次女)がいたが、水が合わなかったのか、紀州へ移って間もなく夭逝させていた。



 家康の命を受けた紀州藩主・浅野幸長あさのよしなががきびしい監視体制を敷く九度山の真田屋敷には、与えられた敷地の奥まった場所に父・昌幸がわずかな家来と住む館を建て、入り口付近の広場に大勢の家族を伴う信繁の館が建てられていた。


 信繁館内でもっとも広くて日当たりのいい部屋は、当然のごとく正室・輝葉姫とその子らに占拠されており、東南角の部屋は一の側室・波瑠姫と御田姫がつかい、日当たりのわるい北西角の部屋が二の側室・芳野と阿梅姫に割り当てられていた。


 気詰まりな幽閉生活といえども、時は一刻たりとも歩みを止めてくれない。

 とにもかくにも食べ、纏い、浴び、眠りして、昨日に次ぐ今日を紡いでいかねばならない日常生活というものの峻厳なる事実を思えば、ひとりの夫と3人の妻妾が同居する歪んだ日常が、たちまちのうちに正室・輝葉姫を中心にした京風の秩序に彩られていったのも、しごく自然な成りゆきであったろう。


 正室の権勢をよそに、幼い頃に遭遇した関白秀次事件以来、ややもすれば皮肉に傾きがちな心情を、のっぺりした公家風の面相に厚く塗り込めた波瑠姫は、何事にも無関心を貫いていた。


 一見はんなりした京言葉が、かえって切っ先の鋭い刃物になりかねない館内で、ひとり異端に置かれた芳野は、幼い阿梅姫の目にも、蟷螂の前の羽虫同然だった。



 実質的な牢屋でもある真田屋敷の四囲には、頑丈な板塀が張り巡らされていた。


 野良仕事に出かける近在の百姓女たちの意味ありげな会話が聞こえて来たのは、5歳になったばかりの阿梅姫が、いかめしげな監視が見張る門の内で、柿の木からほろほろこぼれ落ちる薄黄色の花を、ひとつひとつ拾い集めているときだった。


「まっこと美っつい姫さんやのし」

「ほんまに可愛らし」

「言うてはなんやけど、同じ年頃の3姉妹のうちでも、抜きん出た別嬪さんやで」


 百姓女たちがうわさしているのがだれのことか、初めのうちはわからなかった。


「しいっ。めったなことを。当の姫さんが難儀な目にあわされますよってに」

「なんでよし? 思うておることを正直に言うて、なにがわるいんえ」

「なんでてあんた、ただでさえ肩身の狭い思いをなさっておいでるんやで、阿梅姫さんとかかさんは」

「ほうやがな。そんなところへうちらの話が聞こえたりしたらあんた、いちだんと辛い立場に追いやられるかもしれんよってに、余計なことは言わんこっちゃ」


 思いがけず自分の名を聞いた阿梅姫は、切り提髪を揺らせて板塀を見上げた。


「ほんまやで。奥方さんも一のご側室さんも京のお生まれやのに、阿梅姫さんの母さんだけはあんた、ど田舎もど田舎、草深い信濃の在の出やそうてよし」

「しかもあんた、お3人から、ほぼ同じ時期に姫さんがお生まれになったんやで」

「いやぁ、まっこと、あっちゃあなこっちゃでぇ」


 子ども心にもいやみに響く笑い声が、幼い耳を打った。


「生まれ落ちたときから宿縁すくえんの姉妹関係なんてあんた、母さん方にせよ姫さん方にせよ、さぞかし難儀なこっちゃろうて。思うただけでしんどうて、思わずため息が出るわぇ」

「まったくやなぁ。幸か不幸か、うちら下々には縁のない話やけどな」

「上には上の悩みいうもんがあるんやなあ。まっこと神さんは公平や」


 手の届かぬものへの粘着質の妬心が、塀を乗り越えてむくむくと迫って来る。


「考えてもみなはれ。ひとつ屋根の下に3人もの妻妾が同居しておって、競争心や嫉妬が生まれぬわけがない。それもあれやろ、夏の盛りの野良の肥溜めのように、二六時中、臭い泡が底から湧き上がってきて、いつまで経っても絶えることがないんとちゃうか」

「想像しただけで悍ましいなぁ」


「心の底では殺してやりたいほど憎くてたまらぬ相手と、朝晩、平気な顔を突き合わせ、いやな声を聴かねばならぬとは、女として,どんなお気持ちやろうなあ」

「いやはや、そら恐ろしいでぇ」


 あけすけな会話は、ここでわざとらしく声を落としてみせた。


「それにほれ、上、いうてもなあ」

「そやそや。天下の大御所さんに背いて流されてきた謀反人え。館とは名ばかりの牢屋に閉じ込められ、外歩きもできぬお武家さんと、かような襤褸ぼろは着てもお天道さんの下で暮らせるわてら百姓と、どっちがどうとも言えんとちゃうか」

「ほんまに、人間の幸せなんて、本当は奈辺にあるか、わからんもんやで」


 頭上から燦々と降り注ぐ初夏の太陽の熱さと、ぞっとするほど冷たい人の心根。

 対照的な出来事を阿梅姫は母にも父にも打ち明けず、小さい胸に仕舞いこんだ。

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