生類『不』憐みの令

作者 筑前助広

江戸時代的「分割統治」――利益を確保しつつ蒙昧な下民を相撃させよ

  • ★★★ Excellent!!!

 この物語は、神部藩における城下町の施設が豪華なのに対し町人が栄えていない矛盾を解明しようとするなかで、ある問題に直面する密偵の体験談である。

 はじめに思考の水面に浮かんだのは、神部藩の政策が分割統治そのものに感じられたことだ。
 分割統治とは、『Wikipedia』の概要によれば「ある者が統治を行うにあたり、被支配者を分割することで支配を容易にさせる手法」という。外領を侵略し植民地的にさせ、奴隷や自国に都合の良い者を獲得し、また資本を収集するにあたって、周辺の対抗勢力に団結組織を形成させないために勢力分断を引き起こさせ各個撃破可能な状態に置くのである。これをしたことで有名なのは古代ローマ帝国や19世紀以降の欧米だ。多民族国家という民族独立や階級間対立が発生しやすい勢力は特に、この政策を用いることで、支配下にある諸勢力が団結しないように互いを争わさせるのだ。
 神部藩の場合、自らの政治的失敗と選民思想の末に生み出されたのが、自らに矛先が向かわないよう下民の政治感覚を工作しながら特権階級のもとへ富を収集し、かつある意味での「娯楽」を提供する策だ。これが結局は分割統治だった。

 政治的能力のある者が被支配者に非寛容な思想をもっていると、被支配者に現れるのはディストピアである。だがディストピアをそうあるものと現状理解し改革を実行する元気がなければ、被支配者は再び暴力的手段を支配者に対し訴えることで政治判断を強いることなど出来なくなる。神部藩の庶民は、自分たち被支配者が被支配者たるうえでの施策が妥当であるかを客観的に検討できず、その発想さえもなく、与えられた状況(法制)に疑いなく服従しながら隣人を憐れぬことを是と受け入れてしまっているのである。
 それは幾つか理由がある。大きなものは、情報の遮断だ。メーチニコフの『回想の明治維新』によれば、江戸時代において教育面での広範な社会的自発性の自由が許されていたことから、人々は諸外国に比べて識字率が高かったとされている。とはいえ斉藤泰雄が『識字能力・識字率の歴史的推移』で注意を促したように、階層間や職業間での格差が大きくありえたと思う。識字可能ということは、文字を通して自分の知りえる世界を自らが所属する共同体の外へと広げられるほかに、その外側から再帰的に共同体や自分自身について客観視してみる能力をも身に着けられるということでもある。逆に識字可能でなければ、自分の活動範囲=世界ということになり、再帰的に視られないゆえに個人の内面も持ち得なくなる。神部藩において庶民、特に農民における識字率や寺子屋の状況がどうであるか判らないが、仮に藩の苛政と自発性の制限の影響によりそんなに普及していないとすれば、藩の分割統治政策を異常なものではなく周りの藩でも割と行われているだろうこととして疑いもせず受け入れる傾向を援護させる。それにこの時代、基本的に人の移動は制限されているし、神部藩は神部島という本土から切り離された立地に在って、かつ島全体を囲む暗礁によって寄港者も限られるとあれば、支配者が情報の操作と遮断を行うには快適な立地なのだ。
 また、マインドコントロールの影響も考えてみる。それは身体的拘束などの極端な刺激統制によって個人の精神構造を変化させる洗脳と違い、人間の返報性や一貫性などの心理的傾向を利用して個人が他者から影響を受けていることを自覚しないまま意思決定過程や行動に影響を及ぼし操作する技術のことだ。自発的に見える行動を誘導するのに都合のいい情報だけを提示し選択させ、目標とする行動を起こさせる。マインドコントロールの手法はいくつか理論があるが、ここでは簡単に解凍・変革・再凍結の三段階理論を用いる。解凍とはその人の現実を揺さぶり情緒的安定を崩すことだが、これは神部島の情報格差と苛政で情緒不安定が達成されている。次の変革は情緒不安定による精神の空白を新しいもので埋めることで、人間の環境適応能力を〔生類不憐みの令〕(以降は〔不憐令〕)という新しい環境=不満のはけ口に馴染ませる。馴染まなかった人間(=武士から庶民に標的を替えさせる政策だと気付いた人間)は素早く排除されたはずだ。そして再凍結として庶民の中で人生の新しい目的・活動が見いだされる。新しい人間の仕事は以前の自分を蔑むことで、推奨されないのは個人が自立性を持つことだ。このときよく財産を組織に預けるよう促されるが、それは人間が自ら預けたことについて今更判断の誤りだったと認めるのは苦痛だろうし、外の世界に逃げて経済的に生きながらえていくのはもっと大変だと思わせる役に立つ。〔不憐令〕では二十両の憐み札で祭りを回避できるとしているが、結局それも庶民を精神的・経済的に神部藩に縛り付けさせてしかいない。そうして、神部島で生きる人格を結晶させてしまうのである。
 このほかにも色々と挙げられるかもしれないが、説明すると長くなり過ぎるので措いておく。ともあれこういったことを含めて〔不憐令〕を設計したのなら、神部藩士は基本的には賢いと言えるだろう。

 だが、そもそも支配者階級が選民思想を前提に置き、財政状況の悪化解消策を下民の慰撫ではなく分断・搾取によって賄うという発想が、手段としては間違っていないが、目的としてはそこが神部藩士の限界たるゆえんだ。
 古代ローマ帝国や19世紀以降の欧米がこれを有効にできたのは、外に支配勢力を圧倒する武力を有した別勢力がなかったか、被支配勢力の自主独立の味方をする別勢力が見られなかったからだ。モンテスキューは『ローマ人盛衰原因論』で、古代ローマ帝国が強かったのはローマ人の戦士としての精強さに加え、外国との同盟を侵略の極めて重要な手段として活用する外交政策の巧みさを指摘している。そうすることで、敵対国が同盟できないようにさせ、同盟国が勝手な対外政策をとらぬよう自国の政策に服させ、常に外側に脅威を作らないように工作したのだ。
 ところが、まず神部藩の場合は外側に江戸幕府というさらなる武力保有者が居る。藩は立場上幕府の従属者であり、加えて日本という狭い土地のさらに一地方自治体にすぎない。そんな神部藩が分割統治を施行したからと言って、それが妥当と思われていなければ外から鎮圧されてしまう。実際、江戸城から密偵を放たれるところから物語は始まる。それに、先述の支配勢力が被支配勢力を分割統治したのは、その手段が領土拡大や財産収奪による自国繁栄の国策に一致できたからで、手段の行使は積極的な利益増大の意思に基づく。片や神部藩の分割統治は、従来の武力による弾圧の手詰まりからの回生を狙いつつ選民思想や利権を保存して置きたいとする消極的妥協の手段である。先のモンテスキューを引用するなら、ローマ人の封建構想と蛮族のそれとの違いについて「前者は力の作品であり、後者は弱さの産物なのである」。神部藩士は、神部島内の支配においては賢かったが、神部島外では戦略的に誤った。

 なぜ神部藩の者は〔不憐令〕で行けると思ったのだろう。神部藩藩祖は徳川家光を叔父にもつ松平長頼だが、徳川の身内なら義無き行為をやっても苛烈な処分まではされまいとふんだのだろうか。例えば徳川光圀は若い頃かぶいた格好をしたり辻斬りしたりなど相当素行が悪かったが、結局更生した暁に二代水戸藩藩主になっている。小笠原若狭守が口ごもるのも、徳川の係累の恥を出来るだけ外に漏洩され外様大名を刺激するような危険を排除したかったからなのだろうか。それとも神部藩所業について誰かを切腹により責を取らす、その誰かを秘かに洗い出さねばならなかったためだろうか。あいにく江戸時代にそんなにマニアックじゃないので判らない。

 ひとこと言えるのは、さすが神部藩を支配するのが、出場剣士二十二名中、死亡十六名、重傷二名の「あの」寛永年間の御前試合(南條範夫『駿河城御前試合』調べ)の主催者徳川忠長の縁の者だけある、ということである。

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